どのようにして魂が主を「偉大な者にする[1]」のかが、問題になります。実際もしも主が、増加も減少も受け入れることができず、在るがままに存在するとすれば[2]、どのような理由でマリアはいま、「私の魂は主を偉大な者にする」と言うのでしょうか。もしも私が、主なる救い主が「見えない神の像[3]」であることを考えるなら、そしてもしも私が、私の魂は、「造り主の像に即して造られ[4]」、像の像となっていることに気づくなら――実際、私の魂は特別に神の像なのではなく、第一の像との類似に即して造られています――[5]、私は次のことが分かります。諸々の肖像を描く人たちは、たとえば国王の顔を例に挙げますと、最初の似絵を表現するために、技術を行使します[6]。それと同じように私たちの一人ひとりは、キリストの像に即して自分自身の魂を形成し、より優れたあるいやより劣った像を作ります。それは、色あせていたりくすんでいたり、明瞭に輝いていて、手本となったおおもとの像にうまく対応していたりします。ですから私が、像の像を、すなわち私の魂を大いなるものとし、業と思いと言葉によってそれを偉大なものにしたとき、神の像は偉大なものにされ、主ご自身が――神の像(キリスト)は主の像です――、私たちの魂の中で偉大な者とされるのです。そして主が私たちの像の中で増大するように、もしも私たちが罪を犯したなら、主は、小さくなり減少するのです[7]



[1] anificet;「たたえる」と訳すべきだが、本節の文脈上、その語の厳密な意味で訳した。もちろんこのラテン語に対応すると思われるギリシア語の原語(megalu,nei)にも、「偉大にする」の意味がある。

[2] Si Dominus, …, quod est, est, ... ;『出エジプト記』3,14の「在りて在る者」を連想させる。

[3] Col.1,15.

[4] Gn.1,27.

[5] オリゲネスの人間論の根幹をなす。一応、ここに原文を挙げておく。Si, … et videam animam meam factam ad imaginem conditoris, ut imago esset imagines – neque enim anima mea specialiter imago est Dei, sed ad similitudinem imagines prioris effecta est --,…:cf.C.Cels.VI,63(GCS 2, 133); Com.Jn.VI,49(GCS 4, 158); DeOr.XXII,4(GCS 2, 348) etc.

[6] 肖像画の複製が考えられているのであろう。

[7] 要するに神ご自身は、本質的に増減しないが、私たちの魂の中で、像として、あるいは像の像として増減するということである。

 

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