12 妙秀。さりとては、今までの理りは、皆聞こえたることにてそうろう。我慢偏執の心(=慢心して偏見にとらわれ他の見解を受け付けない心)ろさえなくば、此の理を聞き分けぬ人は候まじ。神代の事は、はやかように正体もなき事にてそうらえば、何を何と申すべきようもなし。然るにまあ、人の世と成りても、何の神、彼神と云いて、色々の神のそうろうは、是は何としたることにて侍るや。

 幽貞。其れ程に聞き得玉へば、わらわも嬉しくそうろう。神代の事を今の分に申さば果てしあるまじければ、御尋ねの如く、人の代と成りて後の神の沙汰を申して、先ず、神道の物語をもやめ、キリシタンの一通りを語りまいらすべし。去れば、人代に及びての神と云う、其の国、其の所に勧請したる神々を申さば、数も限りも有るまじく候えば、大社、宗廟(=そうびょう)とも人のあおぐ(=仰ぐ)一、二(の神)を揚げ申すべし。其れとは先ず、八幡大菩薩、天満天神など。是は天よりも降り、地からも湧き出でたる奇特不思議の神かと見れば、八幡と申すは、人王十五代の御門、応神天皇也。御父は仲哀天皇、御母を神宮(=功)皇后と申せしとあれば、是は人也。又、天神は人王六十代、醍醐天皇の臣下、菅丞相(=かんのしょうじょう)也。然る時は是皆、はて(=果て)玉える後に神といわいたる(=神として祀る)物なれば、或いは昔しの賢王、又は明臣の果てられし物にて、天よりもふらず(=降らず)、地よりも湧かぬ、唯[]人間なれば、是を頼みても、現世安穏、後生善所の所願は成就すべからず。此の所願は、八幡を初め、天神にも、生死を与え玉える天地万像の御作者へいのり奉らでは叶う事に非ず。(日本の)神を頼むは皆同じき事にて侍り。其の故に、惣別(=一般に)かように名有る人の果てたるを何の神、彼神となす事は、吉田の神主、何やらん、ねぎ事(=禰宜事:祈願)を云いて神となす、と云えば、皆人は真にさようにも有ることかと思うは迷いにてそうろうぞ。思うても見玉え。人に位をあたうるは、与えらるる人よりも尚上なる如く、吉田よりなさるる神ならば、神は吉田の下也。吉田を頼みたらんは、尚神に信を取る(=神を信じる)よりも勝るべし。

 妙秀。いやとよ(=いいえ、そうではありません)。「藍は藍より出でて、藍よりも青く」、神は吉田より出でて吉田よりもとうとくそうろう。

 幽貞。奇特なる作分を出し玉い、今の句に引き合わせ玉う面白さよ。去れども神は、吉田より出でて、吉田よりもとうとき謂れ(=理由)は何にてそうろうぞ。

 妙秀。吉田よりもとうとしと申す謂れは、神と成りては吉田の心にも任せぬ(こと)は、(神が)尚上にしてとうとき故に侍らずや。

 幽貞。いやいや。常に人の申す諺にも、「神はきね(=禰宜・男巫・神主)がならわし(=習わし)(=神は神主のやり方次第)と申せば、ましてや、吉田の心ろに任せぬ神は候まじ。其の故にこそ、神主とは申せ。神主とは神をつかさどるなるべし。其れによてこそ、いずく如何なる所に有る神も、吉田より勧請あれば、其の所へ移りますと申されずや。但し、吉田の心ろにも、神はまかせぬと、御身の宣は、神にもよるべし。是に付、人の雑談にせられしを聞きて侍り。昔、ある無骨の人が、吉田殿へ参会の次に(=ついでに)、「御身は有る程の(=存する限りのすべての)神々をば心に任せ玉うか」と云いしに、「御たずねにや及ぶ(=お尋ねになるまでもなく)、已に神主といわれ申す上は、如何なる神慮をも、えやは(=どうして)引きなびけぬ事の侍るべき。御祈念の用ならば、何成とも仰せそうらえ。随分、丹誠(=懇願)を尽すべきにて候」、と答えられしかば、彼人。「去る事にて候。某(=それがし)は天然の貧法(=貧乏)の神の守りは強く、福の神の利生(=御利益)には曾てあずからねば、如何にもして此の貧法の神をば、いずくへも払い、福の神を我が身に勧請してたび(=賜び)なんや」と、云いしかば、神主()、「尤も(=もっとも)の御所望にて候。去れども茲に謂れ(=言い伝え)ののそうろう。昔人王七十二代の御門、白河院が一天の君として万乗の位(=天子の位)にましませしかば、何事も叡慮(=天子の考え)に任せぬ事はなかりしかども、有る時、「朕が心に任せぬ物は、双六(=すごろく)の賽(=さい)と賀茂川の見ず、さては山法師也」(『平家物語』巻一「願立」)と仰せられしと承る。有る程の神をば心に任せ候とも、神主が心にも任せぬ神は、今、御身の宣う貧法の神と、さては福の神にて候らえば、其の御祈念ならば余の方へ(=他の方へ)御頼み候らへ」とて、互いに笑いて座敷を立たれしと、人の語りて候らいつる。是は先ず[]時の御気なぐさめの雑談、菟角(=兎に角)にかように申しそうらへば果しも侍らぬ程に、是より後は、吾宗キリシタンの教えを語りまいらすべし。今まで永々しく申しつる如く、仏法、神道は、何れも真の天地の主をしらねば、正体なき事のみにて侍り。現世安寧、後生善所といのるにも、先ず、此の天地に主が在ます(=まします)事を知らねばならぬ事にてそうろうぞ。

 妙秀。誠に、仏法、神道の赴(=趣:趣旨)を今こそ委しく聞きてそうらえ。仏者の空生空滅とて、有る程の物を無主、無我に見破る(=結論する)も沙汰の限り(=問題外の誤り)。又、神道などにはかように陰陽の沙汰より外は(なにも)せられぬ。其の理にくらく、おかしくそうろう。是は此の前、御身の宣いし様に、無心無念の物なれば、此の陰陽ばかりにて物の出で来ると申すは、たとえば、此の扇子の地骨、かなめ(=要)が独り寄り合いて、かように扇子と成りたると云うと同じ事にてそうらへば、此の扇子の折り手[]なくて叶わぬ理にて侍り。は天地番像も、さおうにこそはそうらわめ。独りは如何にとして出で来べきや。此の上は、わらわも御門弟と成りそうろうべければ、御宗旨の上を語り玉へ。

 

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