15 右、此の妙貞問答のあたる心ろは(=目当てとした意図は)、よし有る人(=由緒ある人)の、婦人、后室(=高貴な未亡人)などは、出家とても、男子にはたやすく見えて(=まみえて:会って)、法(=のり)の理り(=教理)ながらも尋ね玉うに便り(=手だて・便宜)なきが故に、願い有りても空しく過ごし玉うのみ也。去れば、かようの人々も、身ずから是を誦み(=よみ)明め、キリシタンの教えの、有り難き程をもわきまえ玉うべき為につづり出す所、巻の数をば、上中下の三つに分かち、上の巻には、仏法の空無を本とせば、皆邪なる法也と嫌い退け、中の巻には、儒道と神道の赴(=趣:趣旨)を論じて、キリシタンの真の教えには、遥かに異なる理を示し、下の巻には、吾が宗キリシタンの教えの真を、かつ揚げて(=少しばかり)顕し侍り。なべては(=すべては)言葉のつたなきにもかかわらず、殊には、(吾が)才の短きをもかえりみず、唯、真の御主Dsの、世にあがめられ玉うべきことをのみ希て(=ねがいて)、偏に(=ひとえに)身の嘲りを忘れ畢(=おわんぬ)。是、併し(=しかし)、当来(=来たるべき世)に、生天(=天国に生まれる)の結縁(=けちえん:成仏する因縁を結ぶ)をあおぎ奉るが為也。不干斎 巴鼻庵 敬白。

 

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