次に彼は、「美しい種をまく人は人間の子である」から始めて、答えて行った。

 それらの事柄については、我々は、これに先立つ箇所で、我々に可能な限りで把握したが、やはり今回も――異なる解釈に即した話を含むことにはなるが――それらの事柄と調和し得る諸々の事柄を語ることにする。そこで、「美しい種は、み国の子らである[1]」という言葉を、以前に与えられた事柄に加えて、さらに別の仕方で受け取ることができるかどうか、あなたは注目してください:すなわち、人間的な魂の中に生まれた諸々の美しい事柄はみな、「元に神とともにあった[2]」神のみ言葉によって播種されたもので、まさに神の国の諸々の産物である。それゆえ、個々の事柄に関する諸々の健全な教えは、み国の子らである。ところが、「あなた方は目覚めて、祈りなさい。あなた方が誘惑の中に入らないために[3]」と語るイエスの定めを実践しない者たちが眠っている間に、抜け目ない悪魔が[4]、いわゆる諸々の毒麦、諸々の邪悪な教えを――或る人たちによって自然的と呼ばれる諸観念と[5]、み言葉に由来する諸々の美しい種との中に――播き入れる。これによると、畑は、神の境界ばかりでなく、世界全体であると言えるかもしれない。なぜなら世界全体の中で、「人の子」は「美しい種」を播いたからであり、邪な者が「諸々の毒麦」――それらは、諸々の邪悪な教え、すなわち、その悪性ゆえに邪な者の子らである――を播いたからである[6]。しかし、「代の完成」と呼ばれる諸事物の終わりに刈り取りが行われねばならないだろう――そのために任命された神のみ使いたちが、魂に生み出された諸々の卑しい教えを拾い集め、「焼く」と言われる火にそれらを投げ込んで、それらを滅びに委ねるために[7]。こうして、み言葉のみ使いにして奉仕者たちは、キリストの国全体から、諸々の魂に内在するすべての躓きと「不法を行う」諸々の思惑を集め、それらを滅ぼし、「火の着いた炉」の中に投げ込むだろう[8]。自分たち自身が眠っていたゆえに邪悪な者の諸々の種を自分たち自身の内に受け取ったことに気付いた者たちは泣き、いわば自分たち自身に憤るだろう。実に「諸々のはきしみ[9]」とは、そのことである。それゆえ、『詩編』の中でも「彼らは、自分たちの諸々の歯を私に対してきしませた[10]」と言われている。特に「そのとき、義人たちは輝くだろう」――諸々の元のときのように様々な仕方で(輝くの)ではない。彼らは皆、「彼らの父の国の中で一つの太陽のように[11]」輝くだろう。ともあれ救い主は――おそらくたとえ話の説明におけるすべての事柄を通して、あるいはおそらく「義人たちは彼らの父の国の中で太陽のように輝くだろう」という言葉を通して――神秘を明らかにした上で、「諸々の耳を持つ者は聞きなさい[12]」と付言し、たとえ話の解説の中でそれはきわめて明瞭に開示され、普通の人たちにおいてもそれは理解され得るようになったと考えている人たちに次のように教えている:たとえ話の解釈に属するそれらの事柄自体も解明を要すると。



[1] Mt.13,38.

[2] Jn.1,2.

[3] Mt.26.41; cf.Mc.14,38; Lc.12,40.

[4] Cf.1P.5,8.

[5] ストア派に由来する。

[6] Mt.13,37-38.

[7] Mt.13,40.

[8] Mt.13,41-42.

[9] Mt.13,42; cf.8,12; 22,13; 25,30 etc.

[10] Pt.35,16.

[11] Mt.13,43; cf.5,16.

[12] Mt.13,43cf.11,15; 13,9; Mc.4,23; 7,16; Lc.14,35; Ac.2,7.11.17, etc.

 

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