24 しかし、もしもあなたが、魂の諸々病気がどのようなものであるかを見たいのなら、守銭奴たちと野心家たちと少年を好む者たちとあらゆる好色家を、どうか考えてください。彼は、彼らを群衆たちの中に見て、彼らのゆえに腸を痛め、癒した[1]。しかし、一切の罪が病気であると見なさるべきでなく、魂の全体に襲いかかるものが病気であると見なされるべきである。銀貨とその保守と収集とに向かう守銭奴たちのすべてと、虚栄に向かう野心家たち――なぜなら彼らは、多くの人々と通俗的な人たちからの賞賛を目当ててに口を開いているからである――をそのように見ることができる。さらにあなたは、我々が名を挙げたその他の人たちや、彼らに似たその他の事柄についても、同様のことを考えるだろう。そころで我々は、「彼は彼らの諸々の病気を癒した[2]」という言葉を説明したとき、一切の罪が病気なのではないと言ったのであるから、それらの違いについても、()文書から助言を受ける値打ちがある。実際、使徒は、多様な諸々の罪を持つコリントの人たちに(手紙を)書いて次のように言っている:「それゆえ、あなた方の内に、多くの弱い人そして病人がおり、そしてかなり多くの人が眠っている[3]」と。あなたは、それらの言葉の中で、「そして」という接続詞に耳を傾けてください。それは(二つのものを)結びつけ、様々に異なる罪から編み込まれたものを作る。その結果、ある人たちは弱く、他の人たちは弱い人たちよりも重い病人であり、他の人たち両者の人たちにもまさって眠っている。実際、ある人たちは、魂の無力のゆえに、罪を犯すことへと滑落するが、病人たちのように全面的に何らかの種類の罪に侵されることはなく、ただ弱いだけである。或る人たちは、「魂と心と思いのすべてを挙げて[4]」、神を愛する代わりに、諸々の銀貨や虚栄や章連たちを愛している。彼らは、弱さよりも重い病に苦しんでおり、病人である。他方、魂に注意し警戒すべきなのに、そうせず、甚だしい不注意から決断を眠らせ[5]、諸々の思考においてまどろむ人たちは、眠っている。彼らは、「夢想し、肉を汚し、権威を無視し、諸々の栄光を冒涜している[6]」。彼らは、眠ることによって、諸々の事柄に関して、夢想にも似た諸々の虚しい妄想の中にある。彼らは、覚醒時の諸々の真実を受け入れず、諸々の虚しい妄想の中の諸々の事柄によって欺かれている。『イザヤ書』の中でも、彼らについて言われている:「渇く者が(水を)飲む夢を見るが、起き上がると、まだ渇いている。彼の心は、虚しことに希望を置いていた。イスラエルに進軍していた諸国の無数の民もことごとくそのようになるだろ[7]」。たとえ我々が――我々の引用した『コリントの人たちへ(の手紙)』の中で使徒が述べたことを通して――弱い人たちと病人たちと眠っている人たちとの違いを説明することによって、脇道に逸れたように見えるとしても、我々がその逸脱を行ったのは、「彼は彼らの諸々の病気を癒した[8]」という言葉からどのような可知的な事柄が意味されるかを示したかったからである。



[1] Cf.Mt.14,14.

[2] Mt.14,14.

[3] 2Co.11,30.

[4] Mt.22,37; Dt.6,5.

[5] Cf.Mt.25,5.

[6] Jud.8.

[7] Is.29,8.

[8] Mt.14,14.

 

次へ