ところで我々は上で、 「そのとき義人たちは、太陽のように輝くだろう[1]」という言葉に関して、義人たちは、以前のように様々な仕方で輝くのでなく、彼らは皆、一つの太陽のようになるだろうと主張したのであるから、その箇所に関して我々に明らかなことを詳らかにする必要があろう。どうやらダニエルは、理解力のある者たちと義人たちの多くとが栄光において際立っているため「世の光である[2]」ことを知っていたため、次のようにいったのかも知れない:「理解力のある者たちは、天蓋の輝きのように輝き出すだろう。多くの義人たちの中からいわば多くの星たちが、代々にそしてそれ以上に輝き出すだろう[3]」と。使徒も、「太陽の栄光は異なり、月の栄光も異なり、諸々の星の栄光も異なります。実際、星は栄光において(他の)星と異なります。死者たちの栄光も同様です[4]」という言葉の中で、ダニエルと同じことを言っている。なぜなら(使徒は)、彼の預言からその考えを得ているからである。そこで人は、どうして両者は、義人たちにおける光の違いについて語り、救い主は反対のこと――すなわち「彼らは一つの太陽のように輝くだろう[5]」――と言うのか探求するだろう。私は次のように推測する:すなわち、救われた者たちの諸々の至福の始めにおいては、まだ浄化されていない者たちがいるため、救われた者たちの光の違いの諸問題が生じる。しかし、我々が説明したように、人が「キリストの国全体からすべての躓きを集めるとき、そして、不法を行う諸々の思惑が火の炉の中に投げ込まれ[6]」、諸々のいっそう邪悪な事柄が焼き尽くされたとき、そしてそれらの事柄が行われている間に、邪悪の子らという諸々の言葉を受け入れていた者たちが(それらの事柄の)自覚に至ったとき、そのとき彼らは一つ陽光となり、「義人たちは、彼らの父の国の中で輝くだろう[7]」と。そころで彼らは、彼らの光を享受する(彼らより)劣った人たち以外の誰のために輝くだろうか――ちょうど今、太陽が地上にいる者たちのために輝いているのに類比して。彼らはきっと自分たち自身のために輝くわけではないだろう。「あなた方の光を、人間たちの前で輝かせなさい[8]」という言葉を、ソロモンによって言われた言葉に従って、「心の平板に三重に書き写す[9]」こともおそらく可能だろう。かくして今でも、イエスの弟子たちの光は、他の人間たちの前で輝くことになる――復活前の出立[10]の後でも、復活の後でも、すべての人が「完全な人[11]」に至り、一つの太陽になるまで:そのとき彼らは、「彼らの父の国の中で太陽のように輝くだろう[12]」。



[1] Mt.13,43.

[2] Mt.5,14.

[3] Dn.12,3; Sg.3,7.

[4] 1Co.15,41-42. 訳者(朱門)は、直訳している。

[5] Mt.13,43.

[6] Mt.13,41-42.

[7] Mt.13,43.

[8] Mt.5,16.

[9] Cf.Pr.3,3 et 22,20.

[10] 原語はe;xodojである。もちろんそれは「死去」を意味する。

[11] Ep.4,13.

[12] Mt.13,43.

 

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