またここで、畑とその中に隠された宝をそれぞれ探求されねばならない。そして、その隠された「宝を発見した人間が」どのようにして「喜んで去り、その野原を買うために、自分の持っている諸々のものを売り払った[1]」かが探求されねばならない。さらに、彼が売り払ったも諸々のものが何であるかも探求されねばならない。私には次のように思われる:それらに関する限り、野原は、歴史・律法・諸々の預言・その他の諸文書に含まれる諸々の言葉――実に()文書全体の諸々の言葉の植生は多種多様である――の諸々の明白な事柄の内に「植えられた[2]」文書である[3]。野原の中に隠された宝は、諸々の明白な事柄の内に隠されて存在する知恵の諸々の理解である[4]。この知恵は、神秘とキリストの内に隠されていたもので[5]、「彼の内に知恵と覚知との諸々の宝が隠れている[6]」。他の人は次のように言うかもしれない:「主が祝福した」真に「満ち足りた野原[7]」は、「神のキリスト[8]」であり、その内に隠された宝は、パウロのもとでキリストの内に隠されたと言われている諸々の事柄であると。実際パウロは、「彼の内に知恵と覚知との諸々の宝が隠れている」と言っている。したがって諸々の天的な事柄と「諸々の天の国」は、いわば心象として、これまた「諸々の天の国」である諸々の()文書に書かれている。あるいは、代々の王であるキリストご自身が、「畑の内に隠された宝」に類比される「諸々の天の国」である。



[1] Mt.13,44.

[2] Cf.2M.1,29; Ex.15,17.

[3] 訳者(朱門)は直訳している。文字通りの意味に受け取られた聖文書が話題にされている。

[4] Cf.De Princ.IV,3,11.

[5] Cf.1Co.2,7.

[6] Col.2,3.

[7] Gn.27,27.

[8] Lc.9,20.

 

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