私は、以上の諸々の事柄を、諸々の石に関する研究()から収集した上で、次のように言う:救い主は、諸々の真珠の違いを知っていたからこそ――それらの中には、種類ごとに、美しいものもあれば、粗末なものもある――「諸々の天の国は、諸々の美しい真珠を探す行商人に類比している[1]」と言ったのである。実際、諸々の真珠の中に粗末な真珠がなければ、「諸々の美しい真珠を探す行商」という言葉は言われなかっただろう。真理を告げるあらゆる種類の諸々の言葉――しかも諸々の真珠を担う諸々の言葉――の中から、あなたはそれら(の美しい真珠)を探すべきです。そして、私が敢えて言えば、天の露によって孕み、天からの真理の言葉を産み出す諸々の貝、すなわち諸々の預言が[2]、目下の言葉によれば行商人が探しているという諸々の美しい真珠でなければならない。諸々の真珠の隊長――彼が発見されると、残りのものたちも発見される――すなわち高価な真珠は、神のキリストであり、律法と諸々の預言の諸々の高価な文字や諸々の理解を越える言葉――これが発見されると、他のすべての諸々の事柄も容易に把握される――でなければならい。そして救い主は、行商人のようなすべての弟子たち――彼らは「諸々の美しい真珠を探す」だけでなく、それらを見出し,所有している――と対話し,彼らの間で次のように言っている:「あなた方は、諸々の真珠を豚たちの前に投げてはならない[3]」。それらが弟子たちに言われたのは、「彼は、諸々の群衆を見て、山に登った。そして彼が身を落ち着けると、彼の弟子たちが彼に近づいた[4]」という諸々の言葉の始めに置かれた言葉から明らかである。実際、それらの言葉の続きの中で、「あなた方は、聖なるものを犬たちに与えてはならない。またあなた方は、諸々の真珠を豚たちの前に投げてはならない[5]」と言われている。したがって、おそらく、諸々の真珠はおろか高価な真珠も持っていない者は、救い主の弟子でもないだろう。彼らは、諸々の美しい真珠を持っており、諸々の曇った真珠でも諸々の暗い真珠は持たない。異端者たちの諸々の言葉はそのようなものである。それらは、東の方角を向いて生まれたのでなく、西の方角や北の方角を向いて生まれたものである――もしも、様々な場所で生まれた諸々の真珠の違いを我々が見出する機縁となった諸々の事柄を援用しなければならないとすれば[6]。おそらく、諸々の汚れた言葉、「肉の諸々の業[7]」の中に包まれた諸々の異端が、諸々の曇った真珠であり、諸々の泥の中に生まれた美しくない真珠であろう。



[1] Mt.13,45.

[2] Cf.Jc.1,18.

[3] Mt.7,6.

[4] Mt.5,1.

[5] Mt.7,6.

[6] 意訳すると、「さまざまな場所で生まれた真珠の違いを我々に教えてくれた数々の報告を援用しなければならないとすれば」ということになるだろう。

[7] Ga.5,19.

 

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