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 あなたは、「美しい諸々の真珠を探す人[1]」に、「あなた方は探しなさい。そうすればあなた方は見出すだろう[2]」という言葉と、「探す人は皆、見出す[3]」という言葉を結びつけるだろう。いったい何を「あなた方は探す」のだろうか。あるいは、「探すものは皆」何を「見出す」のか。私は思い切って、諸々の真珠と――すべてのものを与え、失った人が獲得する――(一つの)真珠であると言いたい。彼についてパウロは次のように言っている:「私は、キリストを得るために、すべてのものを失いました[4]」。「すべてのもの」とは「美しい諸々の真珠」であり、「私はキリストを得るために」とは、「一つの高価な真珠[5]」であると私は言いたい。ところで、闇の内にいる者たちにとって灯明は貴重であるが、灯明の有用性は太陽が昇るまでである[6]。また、モーセの顔面上の栄光も――私が思うに預言者たちの栄光も――貴重であり、美しい眺めである。我々は、その栄光を通して、キリストの栄光を見ることができるところまで導かれる。その栄光を御父は証して、次のように言っている:「これは、私の意にかなった愛すべき私の子である[7]」。しかし、「このように部分的に栄光を受けたものは、卓越した栄光のゆえに栄光を受けなかった[8]」。我々にとっても、先ず栄光が受け入れられた後、「卓越した栄光」のゆえの無効が必要である――「完全な者が来たとき無効にされる[9]」部分的な覚知が必要なように。したがって、養育期に至り「完成をめざして[10]」歩む一切の魂は、その内に「時の充満[11]」が存立するまで、養育係と管理人たちと付き人たちが必要である[12]。それはその魂が、それらすべての後で、「すべての者の主であっても、かつては奴隷と異ならなかった[13]」人が、養育係と管理人たちと付き人たちとから解放され、父の諸々の遺産――高価な真珠と来るべき完全なものに類比した諸々の遺産――を受け取るためである。その来るべき「完全なもの」は、――人が、諸々の覚知によってあらかじめ訓練された後、「キリストの覚知の卓越性[14]」を受け入れることができるようになったとき――「部分的なもの」を無効にする[15]。もちろんそれらの覚知は、私が敢えて言えばキリストの覚知によって凌駕されることになる。ところが、律法という多くの真珠の美しさも、未だに「部分的な」一切の預言的な覚知[16]も理解しない多くの人たちは、それらが明瞭にされ隈なく把握されなくても、「一つの高価な真珠[17]」を見出し、「キリスト・イエスの覚知の卓越性」を観想することができると考えている。その卓越性に比べるなら、それほど偉大でそれほど崇高な覚知に先立つすべての事柄は、固有の本性において「諸々の塵あくた[18]」でなくても、「諸々の塵あくた」に見える。それらは、おそらくブドウ栽培者によってイチジクの木の脇に置かれて、イチジクが結実するための原因となる「肥やし」である[19]



[1] Mt.13,45.

[2] Mt.7,7.

[3] Mt.7,8.

[4] Ph.3,8.

[5] Mt.13,46.

[6] Cf.Lc.1,79; Ap.22,5.

[7] Mt.3,17.

[8] Cf.2Co.3,10.

[9] Cf.1Co.13,10.

[10] He.6,1.

[11] Ga.4,4.

[12] Cf.Ga.4,2.

[13] Ga.4,1.

[14] Ph.3,8.

[15] Cf.1Co.13,10.

[16] 1Co.13,9.

[17] Mt.13,46.

[18] Ph.3,8.

[19] Cf.Lc.13,8-9.

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