11 それらの後で、ユダヤ人たちの許にある長老たちの諸々の伝承全体を、預言的な諸々の言葉から非難しようとして、(救い主は)、『イザヤ()』から次のような言い回しの発言を引用した:「そして主は言った:『この民は、自分たちの口において私に近づく[1]』云々」と。そして我々は先ほど、マタイがその預言の言葉を同じ言い回しで書き記さなかったと述べた[2]。しかし、それを使った福音のゆえに、我々が可能な限りそれを説明しなければならないとするなら、我々は、既に我々によって有益に考察されたと私が考える言い回しを、この福音の中で預言者から取られた言い回しの解釈のために援用したい。『イザヤ()』における発言は、その始めの部分から次のようになっている:「あなた方は、呆然とし、自失した。あなた方は、甘酒でも葡萄酒にも酔い痴れなかった。なぜなら主は、茫然自失の霊をあなたに飲ませたからだ。そして彼は、彼らと彼らの預言者たちと彼らの支配者たちの諸々の目――諸々の隠された事柄を見る諸々の目――を閉ざすだろう。そして、それらすべての諸々の発言は、あなた方にとって、封印された巻物の諸々の言葉のようになるだろう。もしも彼らがその巻物を、諸々の文字を知っている人間に与えて、『あなたはそれらを読みなさい』と言っても、その人は、『私は読むことができない。なぜならそれは封印されているから』と言うだろう。また、その巻物が、諸々の文字を知らない人間の諸々の手の中に与えられ、彼に『あなたはそれを読みなさい』と言うとしても、彼は、『私は諸々の文字を知らない』と言うだろう。そして主は、言った:『この民は私に近づく』云々から、『ああ災いかな、密かに計画を作っている者たち。彼らの諸々の業は、闇の中あるだろう』という言葉まで[3]」。

さて私は、福音の中に提示された言い回しを取り上げ[4]、それに先立つ諸々言葉の一部と、それに続く諸々の言葉の一部を引用した。それは、どのようにしてみ言葉が、民に属する者たち――自失し酔い痴れ、茫然自失の霊を飲まされた者たち――の諸々の目を閉ざすと言って脅したのか[5]、また、どのようにしてみ言葉は、彼らの預言者たちと、諸々の隠された事柄を見ると請け負う彼らの支配者たちとを眠らせると言って脅したのかを[6]、我々が示すためである。それらの事柄は、私が思うに、かの民の内への救い主の到来の後に起こった。実際、諸々の()文書の諸々の発言の全体は、特にイザヤの「(それらすべての発言は)封印された巻物の諸々の言葉のように(なるだろう)[7]」という言葉は、彼らに対して起こった。その「封印された(巻き)物の[8]」という言葉は、不明瞭さによって閉じられたもので、明瞭さによって開かれていないものであるかのごとくに言われている。それは、諸々の文字を知っていないがゆえに根本的にそれを読むことのできない人にとって(不明瞭であるの)と同様に、諸々の文字を知っていると請け負いながら、書かれた諸々の事柄の中の精神を読み取らない人たちにとっても不明瞭である[9]。そこで、そのような人たちに対して(聖文書は)次の言葉を見事に付け加えている:諸々の罪によって箍を外された民は自失して、彼に対して荒れ狂うとき、(主は)さらに彼らを茫然自失の霊によってご自身に対して酔い痴れさせるだろう;民は、主によってその霊を飲まされるだろう。主は、彼らの諸々の目――預言者たちの諸々の目、神的な諸文書の内にある諸々の神秘の諸々の隠された事柄を見ると請け負おう彼らの支配者たちの諸々の目――を見るに相応しくないものとして閉ざす。そして諸々の目が閉じると、彼らに対して、預言的な諸々の発言は封印されたもの、隠蔽されたものになるだろう[10]。イエスをキリストとして信じなかった人たちの民は、そのことを被った。そして、「封印された巻物の諸々の言葉のように」諸々の預言的な発言が彼らに対して――諸々の文字を知らない人たちばかりでなく、諸々の文字を知っていると請け負う人たちに対しても――起こったとき、主は、ユダヤ人たちの民が「口において」神に近づくだけだと言ったのである。そして主は、民が「諸々の舌で」ご自分を敬っていると言う。それで、「彼らの心」は、イエスに対する不信仰のゆえに、主から遠く離れているのである[11]

特に今でも、彼らが我らの救い主を拒絶して以来、彼らについて、「彼らは私を空しく崇拝している」という言葉が、神によって言われるだろう。なぜなら彼らは、もはや神の諸々の命令を教えず、人間たちの諸々の命令を教えているからであり、もはや智恵の霊からの諸々の教えを教えるのでなく、人間的な諸々の教えを教えているからである。そこで、それらのことが彼らに起こったため、神は、ユダヤ人たちの民を置き換えて、彼らの間にいた彼らの賢者たちの智恵を滅ぼした。なぜなら彼れらの許には、預言がないように、もはや智恵もなかったからである。そればかりか神は、民の分別ある者たちの分別をどこかに埋めて隠した。それはもはや、輝いておらず、目立ってもいない[12]。それゆえ彼らは、何らかの計画を深淵に行っているように見えても、主のためにそれを行っていないがゆえに不幸だと見なされる[13]。たとえ彼らが、神的な計画に属する何らかの諸々の隠された事柄を吹聴しても、彼らは嘘をついている。なぜなら、彼らの諸々の業は光と昼に属するものでなく、闇と夜に属するものだからである[14]。その預言を提示し、その預言のある程度の解明を我々が簡潔に提示することにしたのは、マタイがその預言を思い出していたからである。しかし、マルコも思い出していた[15]。我々は、ユダヤ人たちがパンを食べるときは、諸々の手を洗うべきだと考える長老たちの違反に関して、彼から、その(マタイの)箇所に関わる次のような内容の諸々の言葉を有益に提示したい:「実際、ファリサイ派の人たちとすべてのユダヤ人たちは、諸々の手を肘から拳まで念入りに洗わなければ、食べない。なぜなら彼らは、長老たちの伝承を固守してたからである。そして広場から帰ると、彼らは、沐浴しなければ、食べない。その他、彼らが固守すべきこととして受け取ったその他の諸々の事柄がある――諸々の杯と諸々の鉢と諸々の青銅器と諸々の寝台の諸々の洗浄など[16]」。



[1] Is.29,13.

[2] Cf.Mt.8-9.

[3] Is.29,9-15.

[4] Cf.Mt.15,1-6.

[5] Cf.Is.29,9.

[6] Cf.Is.29,10.

[7] Cf.Is.29,11.

[8] Cf.Dn.12,4.9.

[9] Cf.Is.29,11-12.

[10] オリゲネスさんよ、あんた、重箱の隅まで穿ろうとするねぇ。

[11] Cf.Is.29,11-12.

[12] Cf.Is.29,14.

[13] Cf.Is.29,15.

[14] Cf.Jn.3,19-20.

[15] Cf.Mt.7,6.

[16] Mt.7,3-4.

 

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