12 「そして彼は、群衆を呼び寄せて、彼らに言った:『あなた方は聞きなさい、そして、理解しなさい』云々と[1]」。

明らかに、それらの言葉を通して我々は、救い主によって次のことを教えられる:すなわち我々が、『レビ記[2]』の中と『申命記[3]』の中で、諸々の清い食べ物と諸々の汚れた食べ物とに関する諸々の事柄を読むとき――それらに関して、身体的なユダヤ人たち[4]と、彼らと僅かに異なるエビオン派の人たちは、我々が違反していると言って非難する――、それらに関する手短な理解がその文書の狙いであると見なしてはならないということを教えられる。実際、「口の中に入るものが人間を汚すのでなく、口から出るものがそうする[5]」のだとすれば、そして特に、『マルコによる福音』の中で、救い主がそれらの事柄を述べつつ、「すべての食べ物を清いものとした[6]」のであるから、次のことは明らかである:すなわち我々は、律法の文字に隷属することを望むユダヤ人たち[7]が汚れたものだと言っている諸々のものを食べても汚れない;しかし、我々の諸々の唇は「感覚」によって縛られるべきであり[8]、我々は、我々の語る諸々の事柄に対して「閂と杭[9]」を作るべきなのに、諸々の思い付いた事柄を語り、諸々の不悲痛な事柄を話し合うとき――諸々の罪の源は、それらの事柄から我々のところにやってくる――、我々は汚れたものになるということは明らかである。実に神の律法に相応しいことは、邪悪に由来する諸々の事柄を禁止し、徳に即した諸々の事柄を命じることであり、固有の理拠によって善悪無記の諸々の事柄[10]を四方に散らすことである。それらの善悪無記の事柄は、選択的意志と我々の内の理性とによって、諸々の罪として悪しく行われることもでき、諸々の正しい行いとして、美しく為されることもできる。もしも人がそれらの事柄を注意深く理解するなら、次のことを見るだろう:善であると思われている諸々の事柄も、情念に囚われて悪しく行われると罪になる。そして、汚れていると言われる諸々の事柄も、我々によって理性に即して使用されるなら、清いものと見なされ得る。罪を犯したユダヤ人の割礼が無割礼に数え入れられ、諸国の民に属する義人の無割礼が割礼に数え入れられるように[11]、清いと思われている諸々のものも、然るべき方法で然るべき時に然るべき程度に然るべき理由からそれらを使わない人によって、諸々の汚されたものの中に数え入れられる。他方、汚されていると言われる諸々のものは「すべて、清い人たちにとって清いものになる。実際、汚されいて不信仰な人たちにとって清いものな何もない。なぜなら、彼らの精神と良心は汚れているからである」[12]。そして、それらの汚されたものは、それらが触れるすべてのものを汚れたものにする。それとは反対に、清い精神と清い良心は、すべてのもの――たとえそれらが汚れたものに見えるとしても――を清くする。実際、義人たちはが諸々の食べ物や諸々の飲み物を享受するのは、放縦にからでも、好色からでも、いずれか一方へ向かう判断によってもない。彼らは、「あなた方は食べるにしても、飲むにしても、何か他のことを行うにしても、あなた方は神の栄光のために行いなさい[13]」という言葉を思い起こしつつ、そうするのである。

福音に即した諸々の汚れた食べ物を描く必要があるなら、我々は次のように言うだろう:貪欲から生み出されたもの、強欲から生まれたもの、好色によって、そして腹が尊ばれて神にされることによって取られたもの[14]――このとき、理性ではなく、腹とその腹に即した諸々の欲求が我々の魂の支配的原理になっている――が、そのようなものであると。そればかりか我々が、ある諸々の物が諸々の悪霊的なものに関わりを持っていることを知りつつ、あるいは、それについて(定かに)知らず、憶測し躊躇いつつ、それらの物を使うなら、我々は「神の栄光のために[15]」それらを使っているのでなく、「キリストの名において[16]」使っているのでもない――諸々の偶像への諸々の供え物が存在することに関する憶測が、(それらを)食べた人を断罪するばかりでなく、そのことに関する躊躇いもその人を断罪する。実際、使徒によると、「躊躇う人が食べるなら、その人は断罪される。なぜならその人は、信仰によって食べたわけではないからである。信仰に由来しない事柄はすべて罪である[17]」と。したがって、食される物が偶像崇拝の諸々の寺院の中で生け贄にされたのでないこと、また、それが窒息死された物や血でもないことを信じている人は、「信仰によって」食べる[18]。しかし、それらのいずれかについて躊躇う人は、「信仰によって」食べるのでない。そして、実にそれらの物が悪霊たちのために生け贄にされたものであることを知りつつ[19]、それでもやはり――生け贄を共有する悪霊たちに関する汚された想念を伴って――(それらを)享受する人は[20]、悪霊たちの仲間になる。しかしながら使徒は、諸々の食物の本性が、(それらを)享受する人にとって害悪の原因でなく、(それらを)慎む人にとって便益の原因でもなく、むしろ、諸々の教説と内心の推論が原因であることを知っていおり、次のように言っている:「食物が我々を神の許に立てるのでない。なぜなら、我々が食べても、我々はより満たされるわけでもなく、我々が食べなくても事欠くわけではないからである[21]」。また彼は、次の人たちを知っている:すなわち、律法に即して諸々の清い物が何であり、諸々の汚れた物が何であるかをより高貴に理解する人たちが、諸々の清い物を享受することと諸々の汚れた物を享受することに関する違いと、それらの(浄不浄という)異なった物の内にある――と私が思っている――諸々の迷信とから離れているため、諸々の食物の享受に無頓着であり、そのためユダヤ人たちから(律法の)違反者たちと批評されている。それゆえ使徒は、どこかで、「あなた方は、誰からも、飲食において批評されてはなりません[22]」云々と言って、我々に次のことを教えている:文字に即した諸々の事柄は「影」であり、それらの事柄の内に貯蔵された律法の真の諸々の理解内容は、「来るべき諸々の善き事柄」であると。それらの(善き)事柄の内で、魂にとって清く霊的な諸々の食べ物とは何であるかを見出すことができるのであり、敵対する偽りの諸々の言説の内で――それらの内に養われる人を害する――諸々の汚れた物が何であるかを見出すことができる。なぜなら「律法は、来るべき諸々の善き事柄の影を持っていた[23]」からである。



[1] Mt.15,10.

[2] Cf.Lv.11,

[3] Cf.Dt.14.

[4] Cf.1Co.10,18.

[5] Mt.15,11.

[6] Mc.7,19.

[7] Cf.Rm.7,6.

[8] Cf.Pr.15,7. 訳者(朱門)は直訳している。「感覚によって」は「分別によって」と意訳できる。

[9] Si.28,25.

[10] ストア派の用語で、直後に説明されている。

[11] Cf.Rm.2,25.

[12] Tt.1,15.

[13] 1Co.10,31.

[14] Cf.Ph.3,19.

[15] Cf.1Co.10,31.

[16] Cf.Col.3,17.

[17] Rm.14,23.

[18] Cf.Ac.15,20.29.

[19] cf.1Co.10,20.

[20] Cf.1Co.8,7.

[21] 1Co.8,8.

[22] Col.2,16:「人は、あなた方を飲食において批評してはならない」(直訳)

[23] He.10,1.

 

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