15 これに続いて我々は、(口から)出で人間を汚す諸々の事柄が、「口から出る」ことによって人間を汚すのはなく、心の中に汚染の原因を持っているのはどうしてかを見てみよう:「諸々の邪悪な考え――それらの考えの種の中に、諸々の殺人、諸々の姦淫、諸々の淫行、諸々の窃盗、諸々の偽証、諸々の中傷[1]」がある――が、口を通って外に出る前に、心から出るときに。実際それらが、心から出るとき、人間を汚す諸々の事柄である。そしてそれらは、心から出るとき、口を通っていく。なぜなら、もしもそれらの事柄が、心の外に現れず、彼の心のどこかに留まり、口を通して語られることを許されないとすれば、それらはたちどころに消滅して、もはや人間は汚されることがないだろう。したがって、一切の罪の源泉と始めは、「諸々の邪悪な考え」である[2]。なぜなら、それらが勝利していなければ、諸々の殺人も、諸々の姦淫も、それらに類する他の何かも存在しないだろうからである。それゆえ各人は、最大限の注意を払って、みずからの心を守らなければならない[3]。実際、裁きの日に「主は来て」、「闇の諸々の隠された事柄を照らして、諸々の心の諸々の企てを明らかにするだろう[4]」――(裁きの)諸々の尋問が自分たち自身に集中して(互いに)「非難したり弁明したりする[5]」人間たちのすべての考えの中で。

「諸々の邪悪な考え」は、そのようなものである。その結果それらは時に、善いものに見える諸々の事柄、しかも――多くの人たちの判断に基づく限りで――賞賛に値するように見える諸々の事柄がを非難に価するものに変える。実際、我々が「人間たちの前で施しを行う[6]」にしても、人類愛者であると人間たちによって「見られ」、人類愛のゆえに賞賛されることを我々の諸々の考えの中で狙うなら、我々は人間たちから「報い」を受けている[7]。要するに、(何か)行うとき「人間たちによって」賞賛されることを意識して為される一切の事柄は、「隠れた事柄の内に見て」、隠れた事柄の内で浄い人たちに報いを与える方から報酬を受け取らない[8]。したがってこのように、外見上の貞潔も、虚栄心と報酬欲に傾いた諸々の考えを持っているなら、また公認された教会的な教えも、媚びへつらいの言説の内に囚われているなら――あるいは、貪欲の口実の内に囚われたり、人が教えに関して人間たちからの賞賛を求めるなら――、それらが、「神によって教会の中に建てられた人たち、第一に使徒たち、第二に預言者たち、そして第三に教師たち[9]」によって考慮に入れらることはない[10]。また、人間たちの許での栄誉や、人間たちからのへつらいや、説教に参列した人たちからの報酬――彼らはその報酬を敬虔を装って与える――のゆえに「司教職をめざす人[11]」についても、あなたは同様のことを言うだろう。とにかくそのような司教は、「よき仕事を切望している[12]」わけではなく、非の打ち所がないことはあり得なず、素面でも分別があるようでもあり得ない[13]。彼は、栄誉によって酔い痴れ、それを無節操に堪能している。司祭たちと助祭たちとについても、あなたは同じことを言うだろう[14]。しかし、もしも我々がそれらの事柄を逸脱の内に言ったと或る人たちに見えるなら、あなたは、すべての罪の源は諸々の邪悪な考えであるがゆえに(それらのことは)必然的に語られたのではないかと、あなたは考えるべきである。なぜならそれらの考えは、それらなしで行われれば行う人を義化するかもしれない諸々の事柄を汚すことができるからである。「(人間を)汚す諸々の事柄[15]」が何であるかが、我々の力に応じて吟味された。「諸々の洗わない手で食べることも、人間を汚さない[16]」。しかし、大胆に言わなければならないとすれば、我々の主導的能力が本性的に食べるいかなるものも、洗わない心で食べることは(人間を)汚す[17]



[1] Cf.Mt.15,19.

[2] 省略

[3] 省略

[4] 1Co.4,5.

[5] Cf.Rm.2,15.

[6] Mt.6,2.

[7] Cf.Mt.6,2.

[8] Cf.Mt.6,4.

[9] 1Co.12,28.

[10] 省略

[11] 1Tm.3,1.

[12] 1Tm.3,1.

[13] 1Tm.3,2.

[14] この訳文を盗み読みする高慢な偽聖職者よ、恥じ入れ。

[15] Mt.15,18.

[16] Mt.15,20.

[17] Cf.Mt.15,20.

 

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