17 しかしあなたは、諸々の福音から、次の人たちが誰であるかを突き合わせてみるべきである:すなわちどのような人たち彼をダビデの子と呼んでいるか、たとえば彼女と[1]、イスラエルの中の盲人たちのように[2];また、どのような人たちが神の子と呼んでいるか、しかも、「本当に」という付加語なしに、たとえば悪霊に取り憑かれた者たちが「神の子よ、私たちとあなたに何があるのですか[3]」と言っているように;あるいはどのような人たちが、「本当に」という付加語を付けて(呼んでいるか)――、たとえば、船の中で彼にひれ伏して、「本当にあなたは神の子です[4]」と言った人たちのように。実に、それらの人々の突き合わせは、(イエスに)に近づいてきた人たちの違いを見るために、あなたにとって有益であると私は思っている:とのような人たちが、たとえば、「肉に即してダビデの種から[5]」生まれた方に近づくのか、また、どのような人たちが、「聖化の霊に即して力の内に[6]」定められた方に近づくのか、しかもこれらの人たちの内のどのような人たちが「本当に」という言葉とともに(近づくのか)、どのような人たちがそれなしに(近づくのか)

次にあなたは、次のことに注意すべきである:すなわち、「カナン人の女性」は、息子のためにではなく――そもそも彼女が息子を生んだことは明らかでない――、悪霊に激しく取り憑かれた娘のために(イエスに)呼びかけたこと[7]、ところが別の母親は、死んで担ぎ出された息子を、生きた者として受け取ったこと[8](に注意すべきである)

さらに、会堂長は十二歳の娘のために、彼女が死んだので(自分の家に来てくれと)要求している[9]。王の役人は息子のために、彼はまだ病気で死にかかっているので(来て直してくれと要求している)[10]

かくして、悪霊に取り憑かれた娘と死んだ息子は、二人とも、それのぞれに母親を持っている。そして、死んだ娘と病気で死にかかっている息子の二人も、それぞれ父を持っている。一方の父は会堂長であり、他方の父は王の役人だった。それらの事柄は、イエスが命を与えて癒やした諸々の魂における様々な種類に関する諸々の教えを含んでいると、私は確信している。そして、彼が民の中で癒やしたすべての事柄――特に、福音記者たちによって当時に書き記されたすべての事柄――が起こったのは、「諸々の印と諸々の不思議[11]」を見なければ信じない人たちが信じるようになるためであった。しかしながら、当時の諸々の事柄は、イエスの力によって常に成し遂げられる諸々の事柄の数々の象徴である。なぜなら(聖文書に)書き記された諸々の事柄の一つひとつが、イエスの力によってそれぞれの相応しさに応じて起こらない時はないからである。

ところで、カナン人の女性は、イエスからの応答の恵みさえ得るのに相応しくなかった。なぜならイエスは、「イスラエルの家の失われた羊たち[12]」のところ――すなわち、慧眼の諸々の魂に属する失われた種族のところ[13]――以外の何か別のところに、父から派遣されたのではないと告白しているからである。しかし彼女は、選択的意志のゆえに、そして神の子イエスにひれ伏したがゆえに、応答を獲得した。その応答は、彼女の卑しい生まれを非難するとともに、彼女の相応しさを明らかにした。なぜなら彼女は子犬として、諸々のパン屑に相応しかったが、諸々のパンには相応しくなかったからである[14]。しかし、彼女が選択的意志を張り詰め、イエスの言葉を受け容れて、「子犬といえども、諸々のパンくずをもらえる[15]」ことを訴え、いっそう大きな生まれの人たちが諸々の主人であることを認めると、彼女は第二の応答を得た。その応答は、彼女の信仰の以下に大きいことかを証し、彼女が望んでいることが彼女に起こることを約束するものだった[16]。また、パウロと彼に似た人たちの母である自由な「上方のエルサレム[17]」に類比する仕方で、悪霊に激しく取り憑かれた娘の母であるカナンの女性――彼女は、そのような魂の母の象徴である――を理解する必要があるだろうと、私は思っている。そしてあなたは、アブラハムの父たちに――彼らの方に族長は去っていった[18]――と、パウロが自分自身と自分に類似する者たちとについて言っているような「母なるエルサレム[19]」とに類比した仕方で、多くと父と多くの母がいるとするのが理に適っていないかどうか、あなたは考えるべきである。

おそらくこの母[20]――カナン人の女性は彼女の象徴だった――は、「ティルスとシドンの諸々の境から[21]」出て行き――地上の諸々の場所はそれらの雛形だった[22]――、救い主の許に行き、次のように言って彼に要求しただろう。そして、彼女は今でも次のように言って要求しているだろう:「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください。私の娘は、悪霊に激しく取り憑かれています[23]」と。つぎに、外からきた者たちにも、弟子たちにも――そうする必要があったので――「私は(イスラエルの家の失われた羊のところにしか)遣わされなかった[24]」と言って答えた方は、次のことを教えている:すなわち、ある知性的で慧眼的で(他の者たちよりも)先行する魂がいて、それらが失われてしまい、象徴的に「イスラエルの家の羊たち[25]」と言われていると。私の思うに、より単純な人たちは、それら言葉が「肉に即したイスラエル[26]」という言葉に基づいて言われていると思い込み、次のことを必然的に認めるだろう:我々の救い主は、父によって、あれらの失われたユダヤ人たち以外の別の人たちの方に遣わされたのではないと。しかし、我々――すなわち、「私たちは、たとえかつて肉に即してキリストを覚知したとしても、今はもはや(肉に即して)覚知しません[27]」と真理から言いたいと祈っている我々――は、み言葉の優先的な仕事が、より聡明な人たちを救うことであることを知っている。なぜなら彼らは、より愚鈍な人たちに比べて、いっそう彼に親密だからである。ところが、「イスラエルの家の失われた羊たち[28]」は、「恩恵の選び出しに即した残留物」がみ言葉を信じたことに比して、み言葉を信用しなかったがゆえに、彼は、イスラエルの「賢者たちを恥じ入らせるために」、イスラエル(の民)でもなく、慧眼な人でもなく、「世の愚かなものたち選び出した[29]」。そして彼は、「存在しない者たち[30]」を「聡明な国民[31]」と呼び、彼らが受け容れることができる事柄、すなわち、「宣教の愚かさ[32]」を渡し、その宣教を信じる人たちを救うことをよしとした。それは、「存在するものたち[33]」――「幼い乳呑み児たちの口から」、彼のために「賛美」を並べ立てているものたち[34]――を恥じ入らせるためである。なぜなら彼ら(存在しないものたち)は、真理の諸々の敵になったからである。

しかし、「カナン人の女性は行って、神としてのイエスに平伏した平伏て言った:主よ、私を憐れんでください。彼は答えて言った:子どもたちのパンを取り上げて、子犬たちに投げることは許されない、と[35]」。人は、この表現の意図も探求するかもしれない。というのは、パンの量が限られていて[36]、子どもたちも家の小さな犬たちも(同時に)諸々のパンを食べることができないほどであるなら、あるいは、上手に作られた美味しいパンがあって、子ともたちのために美味しく作られたパンを小さなに犬たちに理に適った仕方で与えることができないなら、そのようなパンは、イエスの力の上にまったく現れないからである。なぜなら彼の力によって、子どもたちも、言われているとことの小さな犬たちも(諸々のパンに)参与することができるからである。そこであなたは、「子どもたちのパンを取り上げることは許されない[37]」という言葉に対して、次のように言うべきではないかと考えるべきである:すなわち、ご自分を「しもべの姿」にまで虚しくした方は[38]、世の中の諸々の事柄が許容できる限りで、限られた量の力[39]を採用するように配慮したと。そして、「誰かが私に触れた。なぜなら私は、私から力が出て行ったことに気づいたからである[40]」という言葉から明らかなように、その力から一定量が自分から出て行くのを、彼は感じた。こうして彼は、そのような限られた力から[41]、子どもたちと呼ばれる先行者たちにはより多く(の量の力を)与え、そうでない人たちには、子犬たちとして、より少ない(量の力を)与えるように案配した。しかし、事態がそのようであっても、やはり偉大な信仰があれば、彼は、「子どもたちのパン」を、カナンにおける卑しい生まれのゆえに子犬となっている女の子に与えた[42]。そしておそらく、イエスの諸々の言葉の中にも、より理性的な者たちにだけ、子どもたちとして与えることが許される幾つかのパンのようなものがある。しかし、他の諸々の言葉は、主人というより高貴な生まれの人たちの偉大な暖炉と食卓から出る諸々のパン屑のようなもので、幾つかの魂たちが犬たちとしてそれらを利用するだろう。また、モーセの律法によれば、幾つか(の肉)について、それらを犬に捨てることが書かれている[43]。そして聖霊は、幾つかの食物について、犬たちのために取って置かれるように配慮して命じた。

実に、教会的な教えとは無縁の他の人たちは、諸々の魂が異なる邪悪に応じて、犬的な諸々の身体に移行すると想定した[44]。しかし、神的な文書の中にそのことを決して見出さない我々としては、より理性的な状態がより非理性的な状態に変わる――しかもその(より理性的な)状態は、著しい無思慮と怠惰とによってそのようなことを被ると主張する。同様に、み言葉(理性)に配慮しない非理性的な選択的意志は、いつか、理性的にな状態に変わる:その結果、かつて小犬だった状態――「主人たちの食卓から落ちる諸々のパン屑から食べることを愛する状態――が、子どもの状態に至る。なぜなら徳は、神の子供を作ることに大きく貢献し、邪悪と、乱暴な諸々の言葉における狂気と、破廉恥は、()文書の言葉によれば人を犬と呼ばしめることに大きく貢献する[45]。あなたは、非理性的な生き物たちに関する他の諸々の名前についても、似たことを理解するだろう。しかしながら、犬であるとして侮られながらも、子どもたちパンに相応しくないと言われることに憤らず、全き忍耐をもって、あのカナンの女性の言葉――「主よ、その通りです。しかし、小さな犬たちも、自分たちの主人たちの食卓から落ちる諸々のパン屑から食べます[46]」と述べる言葉――を言う人は、イエスの極めて親切な応答を獲得するだろう。イエスは、その人の偉大な信仰を受け入れて、「あなたの信仰は偉大である」とその人に言い、次のように言うだろう:「あなたの望むようにあなたに起こりなさい[47]」――その人自身も癒やされるために、そしてもしも彼が、癒しを必要な何らかの実を生んでしまったなら、その実も癒やされるために。



[1] Cf.Mt.15,22.

[2] Cf.Mt.20,30.

[3] Mt.9,29.

[4] Mt.14,33.

[5] Rm.1,3.

[6] Rm.1,4.

[7] Cf.Mt.15,22.

[8] Cf.Lc.7,12-15.

[9] Lc.8,41-42.

[10] Jn.4,46-47.

[11] Jn.4,48.

[12] Mt.15,24.

[13] 「イスラエル」は、「慧眼の人」と解釈される。Cf.De Princ.IV,3,8.

[14] Cf.Mt.15,26-27.

[15] Mt.15,27.

[16] Cf.Mt.15,28.

[17] Ga.4,26; cf. He.12,22.

[18] Cf.Gn.15,15.

[19] Ga.4,26.

[20] 数行前の「悪霊に激しく取り憑かれた娘の母」をさす。

[21] Mt.51,21.

[22] したがって、この節で言われる「ティルスとシドン」は、別の次元の町(おそらく天のエルサレム近郊の町)である。

[23] Mt.15,22.

[24] Mt.15,24.訳文中の括弧( )は、もちろん、私(朱門)の補足。

[25] Mt.15,24.

[26] 1Co.10,18.

[27] 2Co.5,16.

[28] Mt.15,24.

[29] 1Co.1,27.

[30] 1Co.1,28:新共同訳では「無に等しい者」たち。

[31] Cf.Dt.32,21; Rm.10,19.

[32] 1Co.1,21.

[33] Cf.1Co.1,28.

[34] Cf.Mt.21,16; cf.Ps.8,3.

[35] Mt.15,25-26.

[36] さすがに意訳した。この句の直訳は、「諸々のパンの尺度が現存するなら」である。

[37] Mt.15,26.

[38] Cf.Ph.2,7.

[39] 直訳すると、「力の尺度」。

[40] Lc.8,46.

[41] 直訳すると、「力のその尺度から」。

[42] Cf.Mt.15,27-28.

[43] Cf.Ex.22,30.

[44] 省略

[45] Cf.”P.2,22; Pr.26,11.

[46] Mt.15,27.

[47] Mt.15,28.

 

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