以上は、「食べた者たちは、子どもたちと女たちを除いて、五千人の男たちであった[1]」という言葉のゆえに、我々が述べたものである。しかしその言葉は、両義的である。すなわち、食べて者たちは、五千人の男たちで、食べた者たちの中に子どもや女は誰もいなかった、それとも、単に男たちが五千人いて、子どもたちや女たちは数えられなかった。そこで、ある人たちは、我々が前もって述べたように、子どもたちも女たちも、五つのパンと二匹の魚から増殖し多くされた諸々の物に居合わせなかったと解釈した。しかし或る人は次のように言うかもしれない:多くの人たちが食べ、祝福の諸々のパンに相応しくかつ可能な限り参与したが、その諸々の数に値する者たちは――『諸々の数の巻物[2]』の中で数えられた二十歳のイスラエル人たちに類比して――男たちだった[3];そして、そのような計数と数に値しない者たちは、子どもたちと女たちであったと。しかしどうかあなたは、次のように比喩的に解釈していただきたい:すなわち、「私は、あなた方に霊的な人たちとして語ることはできず、肉的な人たちとして、キリストにおける乳飲み子たちとして語った[4]」という言葉に即して子どもたちを解釈し、「私は、あなた方を皆、純潔な乙女としてキリストに差し出したい」という言葉に即して女たちを解釈し、「私は男になったとき、乳飲み子に属する諸々の事柄を捨てました」という言葉に即して男たちを解釈していただきたい。

しかし我々は、さらに次の言葉を説明しないまま通り過ぎないようにしよう:「彼は、群衆たちを草の上に横になるように命じた。そして五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて賛美し、諸々のパンを割いて弟子たちに与え、弟子たちは群衆たちに与えた。そしてすべての人が食べた[5]」。「そして彼は、すべての群衆たちを草の上に横になるように命じた」という言葉は何を意味しているのか。我々はどのようなことをイエスの命令に相応しく、その箇所に従って理解することができるか。私は次のように考える:彼は、群衆たちに草の中に横になるように命じたとは、イザヤの中で言われている「いっさいの肉は草である[6]」という言葉の故である。すなわち、イエスが祝福した諸々のパンに人が与ることができるようになるために、彼は、肉を支配し、「肉の思い[7]」を服従させるように命じたと。

 次に、イエスからの養いを必要とする人たちの団体は様々である――なぜならすべての人が、諸々の等しい教えによって養われるわけではないからである――。それでマルコは、次のように書いたと私は思っている:「そして彼は、すべての人たちに、緑の草の上に集団ごとに横になるように命じた[8]」;そしてルカは、「彼は、ご自分の弟子たち、『あなた方は、彼らを五十人ぐらいずつの集まりにして横にさせなさい』と言った[9]」と書いたと。実際、イエスの諸々の養いによって安らう人たちは、百の部類――百は神聖な数で、その単一性のゆえに神に帰される――ないしは五十の部類――五十は、五十年ごとに行われるヨベルの神秘[10]と五十日目の祭りの神秘[11]によると解放を含む――の中に入っていなければならなかった。また私は、「十二の籠[12]」は、弟子たちの許にあったと思っている。なぜなら彼らに対して、「あなた方は、十二の玉座に座って、イスラエルの十二の部族を裁くだろう[13]」と言われているからである。また、ルベンの部族を裁く玉座とシメオンの部族を裁く玉座とユダの部族を裁く別の玉座その他が神秘であると言われ得るように、ルベンの養いの籠とシメオンの別の籠とレビの別の籠があるかもしれない。しかし、目下の言葉から離れて、十二部族に関する諸々の事柄と、特にそれらの一つひとつに関する諸々の事柄を収集して、イスラエルの個々の部族が何であるかを言うことは、現在の説明に即していない。



[1] Mt.14,21.

[2] 直訳を試みた。

[3] Cf.Nb.1,18.

[4] 1Co.3,1.

[5] Mt.14,19-20.

[6] Is.40,6.

[7] Rm.8,6.

[8] Mc.6,39-40.

[9] Lc.9,14.

[10] Cf.eg.Lv.25,10.

[11] 訳者(朱門)は直訳している。通常は「五旬祭(ペンテコステ)」と訳される。Cf.eg.Ex.23,15; Ac.2,1.

[12] Mt.14,20.

[13] Mt.19,28.

 

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