「それから直ぐにイエスは、弟子たちに船に乗り、彼に先んじて対岸に行くように強制した――それまでに彼が、群衆たちを解散するために[1]」。

諸々の同じ箇所で「群衆たち」という名詞と「弟子たち」という名詞がどれほど頻繁に言われているかが、注目されるべきである。それは、この注目と、それに関する突き合わせとによって、福音記者たちの目下の課題が、福音の叙述を通して、イエスに近づく人たちの諸々の違いを提示することだということが看取されるようにするためである。すなわち、彼らの内の一方の人たちは、群衆たちであって、弟子たちという称号を得ていない。他方の人たちは、群衆たちよりも優れた弟子たちである。しかし差し当たり我々は、若干の諸々の言葉を引用するだけで十分である――それらの言葉によって人が動かされ、諸々の福音の全体にわたって同様のことをするには。

 さて、次のように書かれている:すなわち、群衆たちが下の方にたのに対して、弟子たちは、山に登っていったイエスに近づくことができたが、群衆たちはそこに行くことができなかったという場面で、次のようなことが書かれている:「彼は、群衆たちを見て、山に登った。そして、彼が座ると、彼の弟子たちが彼の許に近づいてきた。そこで、イエスは口を開き、教えられた。そして彼は、ご自分の口を開き、彼らに教えて言った:『霊において貧しい人たちは幸いである』[2]」云々と。さらに別の箇所でも、群衆たちは癒しを必要としていたので、次のように言われている:「多くの群衆たちが彼について行った。そして彼は、彼らを癒した[3]」と。しかし我々は、弟子たちに関して癒しが書き記されているのを見出さない。なぜなら、もしも誰かがイエスの弟子なら、その人は健康であり、健やかであり、医者としてのイエスを必要とせず[4]、むしろ、彼の別の諸々の力に即して彼を必要とするからである。さらに別の箇所で、「彼が群衆たちに話をしている間、彼の母と兄弟たちが彼に語ることを求めて外に立っていた[5]」;誰かがそのことを彼に示すと、彼は、群衆たちにではなく、「弟子たちに手を伸ばし、次のように言って答えた:『見よ、私の母と私の兄弟たち』[6]」。そして彼は、弟子たちに、彼らが諸々の天の内にいる父の意思を行っており、それによって彼らがイエスの親族に値し、一族の諸々の名に値することを証して、「見よ、私の父と私の兄弟たち」という言葉に、次の言葉を付け加えている:「諸々の天の内にいる私の父の意思を行う人は誰でも、私の兄弟と姉妹と母である[7]」と。さらに別の場所で、次のように書かれている:「一切の群衆が岸部に立っていた。そして彼は、彼らに諸々のたとえ話において多くのことを語った[8]」。次に、播種のたとえ話の後で、もはや群衆たちではなく、「弟子たちが近づいてきて、彼に言った:『なぜ、あなたは諸々のたとえ話において』我々に語るのかではなく、『なぜ、あなたは諸々のたとえ話おいて彼らに語るのか』と[9]」。そのとき彼は、群衆たちにでなく、弟子たちに答えて、次のことを言った:「諸々の天の国の諸々の神秘を覚知することはあなた方に許されている、しかし、他の人たちには、諸々のたとえ話の内に[10]」と。したがって、イエスの御名に近づく人たちの中で、「諸々の天の国の諸々の神秘」を覚知する人たちは、弟子たちと呼ばれ、そのようなことが「許されていない[11]」人たちに対しては、弟子たちより劣った群衆たちと言われるのだろう。実際あなたは、次のことによく留意すべきである:「あなた方には、諸々の天の国の諸々の神秘を覚知することが許されている」と言うことを、彼は弟子たちに言った、群衆たちに関しては「彼らには許されていない」と言ったことを。また他の箇所では、彼は、弟子たちでなく「群衆たちを」帰し、「家の中に入った」。そして、「彼の家の中に入って近づき、『畑の諸々の毒麦のたとえ話を私たちに教えてください』と言った」のは、群衆たちでなく「彼の弟子たちだった[12]」。そればかりか、別の箇所においても、「イエスは、ヨハネに関する諸々の事柄を聞くと、小舟に乗って、荒れた場所に一人で退き、群衆たちは彼について行った。すると彼は出てきて、多くの群衆を見て、彼らに対して腸を痛め、彼ら――すなわち弟子たちでなく、群衆たち――の内の病弱な者たちを癒した[13]」。そして、「夕暮れになると、群衆たちでなく弟子たちが――群衆たちとは違うかのように――彼に近づいてきて言った:『群衆たちを解散してください。彼らが諸々の村の中に立ち去って、諸々の食べ物を自分たちで買うために』[14]」。そればかりか、「彼が五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて賛美し、諸々のパンを割いた」とき、彼は、(それらを)群衆たちでなく「弟子たちに与えた。それは、弟子たちが群衆たちに与えるようにするためである[15]」。なぜなら群衆たちは、イエスの賛美の諸々のパン[16]を彼から(パンを)受け取ることができず、弟子たちを通して辛うじて受け取ることができるからである。しかも彼らは、それらをすべて食べなかった。なぜなら群衆たちは満たされると、「余った物を十二個あった籠の中に一杯に[17]」残したからである。



[1] Mt.14,22.

[2] Mt.5,1-3.

[3] Mt.12,15.

[4] Cf.Lc.5,31.

[5] Mt.12,46.

[6] Cf.Mt.12,47-49.

[7] Mt.12,50.

[8] Mt.13,2-3.

[9] Mt.13,10.

[10] Lc.8,10.

[11] Mt.13,11.

[12] Mt.13,36.

[13] Mt.14,13-14.

[14] Mt.14,15.

[15] Mt.14,19.

[16] Cf.1Co.10,16.

[17] Cf.Mt.14,20.

 

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