16   そして「その時(王は)、ご自分の僕たちに言った。『婚礼は用意できているのに、招きを受けた人々は相応しい者ではなかった。そこで外の通りへ出て行き、お前たちが出会う人は誰でもよいから婚礼に来るように招け』」という言葉は、イエス・キリストの使徒たちに適応することができるでしょう。彼らはユダヤ人たちにこう主張しています。「私達はあなた方に神の御言を伝えねばなりませんでした。ところがあなた方は自分自身を相応しくない者と決め込んでいます。ですから見なさい、私達は異邦の人たちの方へ向かって行きます」(Act.13,46)と。

 外の通りとは、イスラエルの(外にいる異邦人たちという)外の事柄であり、その通りで使徒たちに見出だされた人々は、婚礼に招かれます。と言うのは使徒たちは、出会う人たちを皆、集めるからです。そして彼らは(その招きに)応じる人たちを見出だしました。しかし使徒たちは、その招きの前に、ある時、悪人であったのか善人であったのかを考えて、彼らを招いたわけではありませんでした。出会った人たちを皆、招いたのです。しかしここでは単純に、礼拝に来る人たちの内で一層穏当な人々が善人だと言われていると理解しなければいけません。彼らにはたぶん使徒の次ぎの言葉が相応しいでしょう。「そして立法を持たない異邦人たちが律法に定められていることを自然本性的に行なうときには、彼ら自身が律法なのです。彼らは、律法の命じるなすべき業が彼らの心の中に書き記されていることを証明しているのです。また彼らの良心もそのことを証ししています」(Rm.2,14s)

 そしてキリストと教会との結婚式の婚礼は(招待客で)満たされました。使徒たちによって見出だされた人たちが、神へと立ち還り、婚礼を楽しむために食卓に着くのです。

 次に悪人たちと善人たちとが招かれねばなりませんでした。しかしそれは悪人たちが悪人のまま留まらず、婚礼とは無縁の礼服を脱ぎ捨てて、婚礼の礼服、つまり「思い遣りの心、親切、謙遜、優しさ、寛大さ」(Col.3,12)を着るためだったのです。――実際それらは婚礼の礼服でありす――それ故、王は、彼らのために用意された食事、屠られた牛と肥えた家畜、またすべての用意されたものを差し出すのに先立って、食卓に着いている人たちをご覧になろうとして、入って来られます。それは婚礼の礼服を着ている人たちをご覧になって保護し、そして喜ばせ、またそうでない人たちを罪に定めるためです。そこで王は入って来られ、招かれてその招待に応じてきた人たちの中に、自分自身の品行を改めず、婚礼の礼服を着ていない人がいるのを見出だされて、こう言われます。「どうして婚礼の礼服を着ないでここへ入って来たのか」と。ですから罪を犯したまま(悔い)改めず、主・イエス・キリストを着ない人は、あたかも「弁明の機会」(Ac.25,16)を持っていないかのように押し黙ってしまいます。ですから「その人は押し黙ってしまった」と書かれているのです。

 しかも(婚礼の)招きを尊ばなかった人が婚礼から(外に)放り出されるだけでは十分ではありません。実際、彼は、(手足を)縛るように命じられた王の僕たちによって、然るべき仕方で使わなかった足取りと善い行ないを成し遂げるために行使しなかった行動力とを縛られて、(外に)放り出されただけではありません。彼は一切の光とは無縁の場所に(放り出されるほどに)断罪されねばなりませんでした。そこには闇、いわば暗さにおいて一層深く外の闇と言われる闇がありました。そしてもしも私たちの内の誰かが、王の招きに応じて、王の息子の婚礼に進み出て、招かれた(他の)人たちと共に王の招きに耳を傾け、(共に婚礼に)行くように見えても、先に述べた婚礼の礼服を着ていないのであれば、そうした苦しみを受けて、手足を縛れられ、外の闇に放り出されるでしょう。そこには、「今、笑っているあなた方は不幸である。あなた方は悲しみ嘆くであろう」(Lc.6.25)という言葉通り、嘆きと悲しみに値する罪を犯した人たちのために悲嘆があるでしょう。そして彼らは自分自身の苦痛を嘆き悲しむことでしょう。それ故に、御言は、婚礼の礼服を着ていなかった人たちが陥るであろう恐怖と驚愕、悲痛な出来事と苦悩を明示するためにこう言われたのです。「そこには嘆きがあるだろう。しかし嘆きばかりではなく歯軋りもあるだろう」と。

 そして招かれた多くの人たち全員が、来たのではなく、彼らの内のわずかな者たちが着たことを明らかにするために、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」という言葉が以上のたとえ話全体に付け加えられています。

 

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