18   しかし私たちには、神が何らかのたとえ話に従って人間にたとえられている、神に関する福音書の例が非常にたくさんあります。ですから私たちは、ただたとえ話に関する限りでキリストの御父は人間的な感情をお持ちになると主張する人々を弁護するために、神が人間であると呼んでいるたとえ話を取り上げることに致しましょう。そして旧約聖書の中でそうした意味で(=たとえ話として)語られていることを理解せずに、律法と預言者たちとの神、宇宙を創造した神につまずいている異端者たちにこう言うことにしましょう。すなわち、もしも神が、福音のたとえ話に従って、人間にたとえられているのであれば、あなた方はなぜ、そうしたたとえ話に従って、神の怒りや憤り、後悔や顔を背けること、着座や起立そして逍遥を受け入れないのですか、と。実際彼ら異端者たちは、預言者たちの書に書き記されている神の眠りを、たとえ話であると堅く考えてはいませんでしたし、また(今後もそれを)承認することはないでしょう。更に私たちは彼らに対してこう言うことにしましょう。すなわち、もしもあなた方が、たとえ話の中で神が人間であると言われていることに応じて、(神が)人間的な感情をお持ちになる方として、神に関して述べられている(預言者たちの)書を(たとえ話として)理解しようとしないのであれば、どうして万物の神が、福音書によると人間であると言われているのかを証明して下さい。神は、あなた方の想定するところによると、人間的なものはご自身の中に一切お持ちにならない方だと言われているのですから。

 また私たちは、彼らが新約の文書をよく検討していなかったことも、豊かな例を用いて反駁することに致しましょう。新約の文書では、目下のたとえ話にによると、自分の息子とために婚礼を催す人間である王は、王の招きの応じて婚礼に行こうとしない人々や、婚礼で食事が供されることを無視して各自の畑や商売のために立ち去った人々に対して、腹をお立てになりました。また王は、ご自分の召し使いを捕えて辱め、殺してしまった人々に対しても腹をお立てになりました。確かに彼らは、腹をお立てになられたこの方が、ご自分の息子のために婚礼を催したからには、キリストの御父であるのか、それともキリストの御父は、――ただたとえ話に関する限りで――腹をお立てになられた方とは別の方であるのかを、私たちに言わなければなりません。しかしいずれにしても彼らは、息子のために婚礼を催して腹をお立てになられたお方が、その立腹の故に、キリストの御父であるとは認めようとしないことによっても、また、婚礼を催された方は、婚礼と息子の故に、キリストの御父であり、しかもそのお方がご立腹なされたということを受け入れざるを得ないということによっても、窮地に落とし入れられることでしょう。(以下訳者不明のラテン語訳)[(と申しますのは)多くの事柄が御父の中に、人間たちの受動的な本性に即して、存在すると(聖書で)言われているのを承認せざるをえないからです。それと申しますのも、御父が受動的なお方だからだというのではなくて、御父が人間たちの受動的な本性にご自分を合わせて下さるからです。]

 しかしもしも彼らが腹をお立てになられるという言葉の説明を試みようとするのであれば、私たちは彼らに対してこう言うことにしましょう。異端者の諸君、いったい何が不合理なのですかと。それは、彼らが、福音の中でご自分の息子のために婚礼を催されるお方をご立腹の故に遠避けて、別の方を探し求めたり、律法と預言者たちの中に同じご立腹という言葉やそれに類する諸々の言葉を探し求めることによって、律法と預言者たちとの神とは別の方を作り上げたりすることのないようにするためです。

 

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