11 そればかりか、諸部族の連合や結合によって、諸々の宿営地の配置と境界の設定が(この書に)描写されていることも、疑いもなく、死者たちの復活における何らかの状態に関係しています。三つの部族が「東に」配置され、三つの部族が「西に」、さらに三つの部族が「海沿いに」、残りの三つの部族がアキロン――これは、「痛い風[1]」という意味です――に配置されたと言われています[2]。王族であるユダの部族も――この部族から私たちの主が生まれました[3]――、「東に」置かれました[4]。これらのことは無益に行われたとは.、私は思っておりません。また、イサカル()とゼブルン()がこの(ユダの)部族に結び付けられたことや[5]、この三という数字[6]が四つの方面に充てられていることも、無益なものだと、私は思っておりません。もちろん、これらの四つの方面は、それぞれの配置による多様な特性を持っています。しかし、四方面はすべて、三位の数字[7]の内に包摂されています。しかも、それらすべての方面を通じて、同じ三位が一という数字に集められます[8]。その理由は、疑いもなく次のことです。すなわち、この大地の四方から、主のみ名を呼ばわりながら来たり、「神の国でアブラハムとイサクとヤコブとともに宴会の席に着く[9]」すべての人たちが、父と子と聖霊の唯一の名のもとに、人口調査を受けるからです[10]

 



[1] Cf.Si.43,20: 北風のことであろう。

[2] Cf.Nb.2,3. 10. 18. 25.

[3] Cf.Nb.2,3s.

[4] He.7,14.

[5] Cf.Nb.2,5.

[6] trinus numerus.

[7] trinitatis numerus

[8] per totas has quattuor partes in unum colligitur eadem trinitas semper.

[9] Mt.8,11.

[10] 訳者朱門がしばしば指摘するように、オリゲネスの信仰と思想を貫く概念は、「愛」と、この講話において主題的かつ平易に展開される「過越」(すぎこし)である。以下の講話で述べられるオリゲネスの解釈は、初期から後期に至るまで一貫している。参考までに、最晩年の書とされる『ケルソスへの反論』から、同様の解釈を支持する箇所を訳出する:

ケスソスへの反論6巻第23節の全訳

23 もしも人が、ケルソスの援用した異端のわけの分からぬ蒙昧からではなく、一部はユダヤ人たちの諸々の巻き物――それも彼らの諸々の会堂で朗読されており、キリスト者たちも受け入れている彼らの巻き物から、また他の一部は、キリスト者たちだけの諸々の巻き物から、諸々の神的な景観への諸々の魂のより神秘的な参入に関する数々の手がかりを得たいのであれば、その人は、エゼキルの預言の終わりで預言者によって観られた諸々の事柄を読むべきである。それらの事柄の中で、いっそう優れた諸々の事柄への数々のより神的な魂の様々な参入に関して何らかの事柄を暗示する様々な扉が書き記されている(Ez.48,31-35)。またその人は、ヨハネの黙示から、神の都である天上のエルサレムと、その数々の礎石と扉に関する諸々の事柄を読むべきである(Ap.21)。諸々の神的な事柄へと歩むことになっている者たちに示された道を、数々の象徴を通して学ぶことができるのであれば、その人は、『諸々の数(=民数記)』と題されたモーセの書を読み、イスラエルの子らの数々の布陣に関する諸々の(神秘的な)事柄について、彼を手引きできる人に尋ねるべきである――どのような諸部族が最初の部族として東の地所に配置された、どのような諸部族が南や南西の地所に配置されたのか、いかなる諸部族が海の方に、いかなる諸部族が最後の部族として北に配置されたかのを。そうすればその人は、それらの箇所に、軽蔑すべからざる数々の(神的な)景観を見るだろう。それらの景観は、ケルソスが考えているように、「ある愚かな聴衆たちや奴隷たちを不可欠の相手とする」ようなものではない。その人は、それらの景観の内で、それらの部族がどのようなものであるか、各部族に合わせて枚挙された諸々の数の本性に関する事柄がいかなるものかを把握するだろう。それらの事柄に関して、今、述べることは、時宜を得ていないように我々には思われた。

そこで、ケルソスと彼の巻き物の読者たちは、真正で神的であると信じられている諸々の書のいずこにも、「七つの天」が語られていないことを知るべきである。我々の預言者たちも、イエスの使徒たちも、神の子自身も、「ペルシア人たちやカベイロスたちから学び」、何かを語っているのではない。

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