13 ですから私たちは、イエスの許に、ヌンの子ヨシュアの許ではなく、イエス・キリストの許に、急いで到達すべきです[1]。しかし、まず私たちは、モーセを養育係とし[2]、彼の許で、幼児期の初歩的教えを脱ぎ[3]、キリストの完全性を目指さなければなりません。実際、モーセは、多くの戦いを鎮めませんでした。しかしイエスは、ありとあらゆる戦いを平定し、すべての人に平和をもたらしました。「地では、諸々の戦いが止んだ[4]」と書かれている通りです。約束の地、嗣業の地、「乳と蜜の流れる地[5]」は、イエスによって分配されます。「柔和な人たちは幸いである」。彼らは、イエスを通して「地を受け継ぐだろう[6]」とあります。
[1]
Et ideo
gestinandum nobis est pervenire ad Iesum, non illum filium Naue, sed ad
Iesum Christum. 「イエス」と「ヨシュア」は、ギリシア語でもヘブライ語でも区別されないのは、言うまでもない。この箇所からも、オリゲネスの思想や信仰は、「人類愛」(フィラントローピア)にばかりでなく、「過越」(メタバシス)に貫かれていることを、我々は確認することができる。
[2]
Cf.Ga.3,24.
[3]
Cf.1Co.13,11.
[4]
Jos.14,15;
cf.Hom.Jos.I, 7(SC 71, 111):「『地では、諸々の戦いが止みません』。たしかに、争いと戦いが満ちた私たちの大地では、主イエスの到来まで戦いが止むことはないでしょう」。
[5]
Ex.33,3.
[6]
Mt.5,5.