3 もしも私たちがパウロの言葉に従い、「律法は霊的なものである[1]」ことを信じ、(律法が)含む事柄を霊的に聞くなら、書かれている諸々の事柄の中に、魂にとって大きな進歩が現れてくるでしょう。実際、目下の朗読は、私に次のことを教えています。もしも私が幼年の愚かさを乗り越えたなら、もしも私が諸々の理解において「子ども」であることをやめ、「大人となって、子どもに属する諸々の事柄を捨てたなら[2]」、もしも私が若者、しかも「悪者に打ち勝つ若者[3]」になったなら、私は、「力において進歩したイスラエルのすべての人[4]」と(聖書に)書かれている人々に相応しいと思われるでしょう。諸々の神的な数に相応しいと見なされるでしょう。しかし、私たちの誰かに、子どもっぽくて不安定な理解や女々しく弱々しい遅鈍さが内在するなら、また、私たちがエジプト人や夷狄の数々の風習を身に付けている限り、私たちは、神のみ前で、聖別された神聖な人口調査の対象に相応しいとは見なされません。ソロモン(の書)では、滅びる人たちは数え切れないと言われ[5]、救われるすべての人は数えられると言われています[6]。
[1]
Cf.Rm.7,14.
[2]
1Co.13,11.
[3]
Jn.2,13.
[4]
Nb.1,3. 新共同訳では、「あなたとアロンは、イスラエルの中から兵役に就くことのできる二十歳以上の者を部隊に組んで登録しなさい」と訳されている。
[5]
Cf.Sg.18,12;
Pr.28,28; 29,16.
[6]
Cf.LC.13,23. オリゲネスは、記憶を頼りに聖書の必要な箇所を暗示していると思われる。