10 それゆえ悪魔も、殉教の苦しみによって諸々の罪の赦しが為されることを知っており、私たちに対して、異教徒たちによる諸々の公の迫害を引き起こすことを望んでいません。なぜなら悪魔は次のことを知っているからです。すなわち、もしも私たちが「キリストの名前のゆえに」、ユダヤ人たちと異邦人たちに対して証しするために、「王たちや行政官たちの許に引き出される[1]」なら、私たちに喜びと歓喜がある。なぜなら私たちの報いは、諸々の天の中で大きい[2]、ということを。敵はそれを行ないません。それは彼が私たちの栄光を妬んでいるか、あるいはおそらく、すべてのことを予見し予知しておられる方が、私たちが迫害に耐えられないのをご存知だからでしょう。しかし、「主は、ご自分に属する者たちを知っています[3]」。彼は、意外な人たちの内にご自分の諸々の宝を持っています。「実際、人間が見るように、神は見ない[4]」とあります。この集会の中にも、ただ主にだけ知られた知られた人たち、すでに主の許で殉教者となり、良心の証しのために――もしも人が要求するなら――、私たちの主イエス・キリストの名前のゆえに自分の血を流す用意のできた人たちがいることを、私は疑いません。私は、「自分の十字架を背負い、彼に従う[5]」人たちがいることを疑いません。以上の話は余談として語ったものです。しかし、大祭司とその子らである大祭司たちを通じて、聖なる人たちにおいて諸々の罪の赦しが為されるのはどのようにしてかを理解するために、言う必要があったように思われます。



[1] Lc.21,12.

[2] Cf.Mt.5,12.

[3] 2Tm.2,19.

[4] 1S.16,7.

[5] Mt.16,24.

 

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