14 「ケルビムと贖いの座[1]」は、三位に関する覚知であると理解されるべきです。なぜなら、ケルビムの解釈は、「多数」すなわち覚知の完成を示しているからです。しかし、父と子と聖霊を覚知すること以外にどんな覚知の完成があるでしょうか。それらの事柄が、祭司たちによって配慮されるべきです――汚れなく害されることなく守られるために。



[1] Cf.Ex.25,17-18; He.9,5.

 

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