15 しかし、「マンナという天の食べ物を持っている壺[1]」は、明らかに、神のみ言葉の宝物庫です。「契約の諸々の板[2]」がある「黄金の櫃[3]」は、私が思うに、私たちの精神に他ならないことが示されています。私たちは、この精神の中に書き記された神の律法を持たなければなりません。この精神は黄金でなければなりません。すなわち、純粋で貴重なものでなければなりません。その中に私たちは、書き記された神の律法を常に持たなければなりません。それは使徒が言っているとおりです。こうあります。「インクによってではなく、生ける神の霊によって書かれた(律法を)、諸々の石の板の中ではなく、心の諸々の肉の板の中に[4]」持っていますと。実際これは、「自分たちの諸々の心の中に書き記された律法の業を明示している[5]」人たちについて、(パウロによって)言われことです。しかし、彼らの「諸々の心の中に(律法の業を)書き記したのは、「ご自分の指で(書き記した)[6]」以外の誰でしょうか。実に神は、人類に与えてくださった自然的律法[7]を、あらゆる人たちの諸々の精神の中に書き記しました。そこから私たちは、真理を探究するための諸々の端緒を掴み、あるいは、そのためのある種の諸々の種子を受け取ります。もしも私たちが、それらの種子を上手に手入れすれば、それらは私たちの内で、私たちの主イエス・キリストにおいて、命の実を結ぶことでしょう。彼に、「栄光が代々にありますように。アーメン[8]」。



[1] Cf.He.9,4.

[2] Ex.25,21.

[3] Cf.Ex.25,17.

[4] 2Co.3,3:引用文中に括弧で示した、(律法を)は、パウロの書簡では、「手紙」となっている。

[5] Rm.2,15.

[6] Ex.31,18.

[7] 「自然的律法」(lex naturalis)は、ストア派に由来する「自然法」である。

[8] Ga.1,5.

 

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