ある人たちが考えているように、人は聖なる者となるやいなや、罪を犯すことはあり得ず、したがって罪のない状態にあると考えられるべきであるというのはまちがいである。もしも聖なる人が罪を犯さないとすれば、「あなた方は、聖なる人たちの諸々の罪を負わなければならない[1]」とは書かれなかったでしょう。もしも聖なる人に罪がないとすれば、主は、罪人たちを罰するために遣わしたみ使いたちに、預言者エゼキエルを通して、次のようには言わなかったでしょう。「そしてあなた方は、私の聖なる人たちから始めなさい[2]」と。実際、聖なる人たちに罪がないとすれば、どうして彼らが最初に、諸々の罪の責め苦の数々に服すのでしょうか。もしも聖なる人たちに罪がないとすれば、()文書は決して次のようには言わないでしょう。「義人は、自分の言葉の始めにおいて、みずから自分自身の弾劾者になる[3]」。もしも聖なる人たちに罪がないとすれば、使徒パウロはローマの人たちに次のようには決して言わないでしょう。こう書いています:「あなた方は、食べ物のゆえに、神の業を台無しにしようとしてはなりません[4]」。彼は、ローマの人たちに(その)書簡の始めにこう書いています:「ローマにいるすべての人たち、神に愛された人たち、聖なる者と呼ばれる人たち[5]」と。再び同じ使徒が、コリントの人たちに書いて言っています:「イエス・キリストの使徒と呼ばれるパウロ[6]」、少し後で、「コリントにある神の教会、キリスト・イエスにおいて聖化された人たち、聖なる者たちよ呼ばれる人たち[7]」と。



[1] Nb.18,1.

[2] Ez.9,6.

[3] Pr.18,17.

[4] Rm.14,20.

[5] Rm.1,7.

[6] 1Co.1,1.

[7] 1Co.1,2.

 

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