しかし、私としては、さらに或ることを付け加えたいと思います。人が聖なる決意を持たず、聖性を追及する熱意をもたないなら、その人は罪を犯しても、罪の償い仕方を知りませんし、過失の治療薬の求め方を知らないでしょう。聖人でない人たちは、自分たちの諸々の罪の中で死にます。聖なる人たちは、諸々の罪のゆえに改悛し、自分の諸々の傷を痛感し、滑落を理解し、祭司を探し、健康を願い、大祭司による浄化を求めます。そのようなわけで、律法の言葉は、慎重に、かつ意味深く、大祭司たちと祭司たちは、任意の人たちの諸々の罪ではなく、「聖なる人たちの諸々の罪」だけ「を負わなければならない[1]」と述べています。なぜなら聖なる人は、自分の罪を大祭司を通して治す人だからです[2]



[1] Nb.18,1.

[2] Cf.Hom.Lv.IX,8 (SC 287, 133):「もしもあなたが、あなた自身の諸々の罪を最初に言い出すなら(cf.Is.43,26)、私はあなたを聖なる民とし、あなたの願いを聞き届ける。あなたは次のことを理解しました。すなわち、もしもあなたが罪人であっても、あなたが改心し、罪を棄てるなら、あなたは聖なる人と呼ばれると」。

 

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