しかし私たちは、私たちの大祭司、「諸々の天を通過された偉大な大祭司、イエス[1]」、私たちの主に戻りましょう。そして、彼がどのようにして、ご自分の子らとともに、すなわち、使徒たちと殉教者たちとともに、「聖なる人たちの諸々の罪を負う」のか見てみましょう。私たちの主であるイエス・キリストは、世の「罪を取り除くために」来られ、ご自分の死によって私たちの諸々の罪を抹消されたことは、キリストを信じる人で知らない人は誰もいません[2]。では、どのようにして、彼の子ら、すなわち使徒たちと殉教者たちも、聖なる人たちの諸々の罪を取り除くのか、私たちにできる限りで、神的な諸文書から明らかにしてみましょう。先ず、パウロが次のように言っているのを、あなたはお聞きください:「実際、私は、あなた方の諸々の魂のために喜んで消耗し、消耗されましょう[3]」。また別の箇所では:「実に私は、既に生け贄にされています。私の退去の時――あるいは解放の時――が迫っています[4]」。使徒は、彼が(手紙を)書いた人たちのために、自分が「消耗され」、「生け贄にされる」と言っています。ところで、生け贄が捧げられるとき、それは次のことのために生け贄として捧げられます。すなわち、人々の諸々の罪が――彼らのために生け贄の喉が切られます――清められるため。他方、使徒ヨハネは、『黙示録』の中で、殉教者たちについて次のように書いています:「主イエスの名前のゆえに喉が切られた人たちの魂は祭壇の傍らに立っています[5]」。ところで、「祭壇の傍らに立っている」人は、祭司の役務を果たすことは明らかです。そして、祭司の役務は、民の諸々の罪のために嘆願することです[6]。それゆえ私は、殉教者たちがおらず、聖なる人たちの生け贄が私たちの諸々の罪のために捧げられないことから、私たちの諸々の罪の赦しが行なわれないのではないかと心配しています[7]。それゆえ、私たちの諸々の罪が私たちの内にいつまでもあって、ユダヤ人たちが自分たち自身について言っていること、すなわち、祭壇も祭司職も持たず、それゆえ諸々の生け贄を捧げることができず、我々の諸々の罪が我々の内に残り、それゆえ赦しがまったく与えられない――と彼らは言いいます――と言っていることが私たちに起こるのではないかと、私は心配しています[8]。私たちは、殉教者たちの諸々の生け贄が私たちのために捧げられず、私たちの諸々の罪が私たちの内に残っていると言わなければなりません。私たちは、キリストのゆえに迫害を被るに相応しくなく、神の子の名前のゆえに死ぬに値しません。



[1] He.4,14.

[2] キリストの救済の業を真実として承認するには、信仰が必要である。原文は次の通り:Et quidem quod Dominus noster Iesus Christus venerit ut tolleret peccatum mundi et morte sua peccata nostra deleuerit, nullus, qui Christo credit, ignorat.

[3] 2Co.12,15.

[4] 2Tm.4,6.

[5] Cf.Ap.6,9.

[6] Cf.He.5,1-3.

[7] Cf.Com.Jn.VI,54(SC 157, pp.339-345); Hom.Lv.II,4 (SC 286, p.109):「諸々の罪の最初の赦しは、洗礼です。第二の赦しは、殉教の苦しみの内にあります。・・・ あなたが殉教に至らしめられるなら、あなたは、罪の扇動者である悪魔の喉を切ります」。

[8] 訳文で「それゆえ」(unde, ideo)を多用した。当然のことながら、それは、ルフィヌスがいつものように急いで訳したからであるというよりも、オリゲネスが修辞を顧慮せずに話したからであろう。

 

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