13 そのことは、私たちが手にしているこのみ言葉においても妥当すると、私は思います。なぜなら、諸々の初物が福音の祭司たちにも捧げられるのは適切であり、有益だからです。実際、「そのように主も次のように処置しました。福音を告げる人たちは福音によって生活し、祭壇に仕える人たちは祭壇(の捧げ物)に与るように[1]」と。また、それが相応しく適切であるのとはちょうど正反対に、不適切で不相応であるばかりか、不敬虔なこともあります。すなわちそれは、神を拝み、神の教会に通う人、祭司たちと奉仕者たちは祭壇にたたずみ、神の言葉なり教会の奉仕職なりに仕えるものだということを知っている人が、大地の諸々の実りの中から――神はそれらの実りを、ご自分の太陽を昇らせ、ご自分の諸々の雨を降らせることによってお与えになりました――諸々の初物を祭司たちに捧げないことです。そのような人の魂は、神の思いを持っておらず、彼が受け取った数々の実りを神が与えたとは考えてもおらず信じてもおらず、神とは関係なしにそれらの実りを蓄えていると私には思えます。もしも彼が、それらのものは神によって自分に与えられたことを信じるなら、祭司たちに謝礼を払うことによって、自分に与えられた数々の実りや賜物について神を褒め称えることを知るべきです。



[1] 1Co.9,13-14.

 

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