ですから、他の多くの事柄と同様に、その律法も、文字通りの意味で遵守される必要があると、私は思います。実際、今でも、新約の弟子たちが必然的な務めとして守る律法の諸々の定めがあります。そこで、もしもよければ、まず、あたかも諸々の福音の中で遵守されるべきものとして律法に書き込まれている諸々の定めに議論を向けましょう。そして、それらの事柄が明らかになったなら、それらの中でさらに何が霊的に理解されるべきか探求してみましょう。実際、次のように言う人たちがいます。すなわち、もしも何かが何らかの事柄がまったく文字通りの意味で遵守されねばならないとすれば、なぜすべての事柄も(文字通りの意味で)守られないのか。他方、律法が含む諸々の事柄は霊的な理解に差し向けられねばならないとすれば、文字通りの意味で(理解されるべきものは)何もなく、むしろあらゆる事柄は霊的に識別されねばならないと。しかし、私たちとしては、両者の主張の行き過ぎを抑えながら、この種の律法の諸々の言葉において、どのような規則が遵守されるべきかを、神的な諸文書の権威に基づいて表明してみましょう。

 

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