22 そればかりか、教師たちの一人も、彼が聞き手の人たちに教え宣べ伝え訓練するがゆえに、彼が教える教会という畑すなわち信者たちの心を耕しているように見えると、私は考えます。したがって彼は、自分の耕作の実りを持ち、その諸々の実りの中に疑いもなく何らかの選り抜きの特別の実りを見出し、それを初物として捧げるでしょう。また、初子として、あるいは十分の一税として捧げるべき実りを見出すでしょう。しかし、そのような事柄において敢えて言うことが軽率に見えなければ、次のように書かれている人たちも、おそらく初子であると言うことができるかもしれません。こうあります:「彼らは、婦人たちに触れて身を汚さなかったので、童貞のままだった[1]」。さらに殉教者たちについても、そう言えると考えられます。同じく教会の乙女たちも、初物であると理解することができ、また、結婚の後で節制と純潔の内に生活する人たちは十分の一税であると理解することができます[2]



[1] Ap.14,4.

[2] 本節の拙訳を参照して著作ないしは講義を者は、その旨を明記しなさい。

 

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