23 私たちは、み使いたちの諸々の初物――それらは、み使いたちによって人類の耕作から捧げられると私たちは言いました――から出発し、続いて、使徒たちの許に進み、そこから教師たちの許に導かれました。しかし私たちは、議論を始めた諸々の事柄の始めに戻ることにします。さて、み使いたちの一人ひとりは、代の終わりに臨み、法廷に出廷するでしょう。そのとき彼らは、彼らが管理し支え教えた人たち――み使いたちは彼らのために、「諸々の天の中にいる父の顔を常に見ています[1]」――を連れていきます。私は、そこで、尋問が行なわれるだろうと思っています。すなわち、み使いが人間たちの耕作に失敗したか、それとも人間が怠惰になり、み使いの耕作に相応しい仕方でまったく応えなかったのかと[2]。そしてそこで、神の裁きが下るでしょう:「救いの遺産を受け取る人たちの奉仕と支援のために使わされた」奉仕者としての霊たちの何らかの怠慢によって、あるいは、彼らが助ける人たちの怠惰によって、人間の生活にかくも多くの堕落が生じたのかどうかと[3]



[1] Mt.18,10.

[2] この箇所は意訳した。原文は次の通り:utrum culturae hominum angelus defuerit an culturae angelicae nequaquam digne segnitia humana responderit.

[3] 本節の拙訳を参照して著作ないしは講義を者は、その旨を明記しなさい。

 

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