24 もしもそうであれば、み使いたちと人間たちの間に、神の裁きがあるでしょう。おそらく、或る者たちは、パウロとともに裁かれ、彼の諸々の労苦や諸々の実り――それらの実りは、多くの信者たちから生じます――と比較されるでしょう。彼は、諸々の労苦において、或るみ使いたちよりも優っていることが判明するかもしれません。それで彼は、次のように言ったのです:「それともあなたは、私たちがみ使いたちを裁くだろうというのを知らないのですか[1]」と。パウロ自身がみ使いたちを裁くのではありません。パウロの業――彼が福音において、信者たちの諸々の魂に対して行った業――が或る者たちを裁くでしょう。彼は、すべての者たちを裁くのではなく、み使いたちの或る者たちを裁くでしょう。おそらくそれで、ペトロも、それらの事柄を顧みて言ったのでしょう:「み使いたちも、それらの事柄を見たいと切望しています[2]」と。とはいえ使徒たち自身も、みずからの宣教の務めを果たし、福音の業を成し遂げるために、み使いたちの諸々の助けを利用します。実際、『使徒言行録』では、そのような意味で、「入口を叩いた」のはペトロの「み使い」であると言われました[3]。ですから、ペトロにみ使いがいるのと同様に、パウロに別のみ使いがおり、他の使徒には別のみ使いが、各人の地位や諸々の功績に応じて存在すると理解されます。言うまでもなくみ使いたちは、使徒たちや彼らの後の他の教師たちの諸々の働きと教えにおいて数々の第一の関わりを持つ必要があり、彼らの後に進歩した諸々の魂の実りを、み使いたちと協働した人たちと共に、主の広場に集めなければなりません。したがって、来るべき諸々の実りの収穫の中には、すなわち、信者たちの将来の選びの中には、たとえば或る教会の特別に秀でた人が初物として含まれているでしょう。さらに、その人よりも優れた他の教会の人が、たとえば別のみ使いによって捧げられる初子として含まれるでしょう。



[1] 1Co.6,3.

[2] 1P.1,12.

[3] Cf.Ac.12,15.

 

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