30 そこで私たちは、諸々の初物の説明に戻ることにしましょう。それらは、み使いたちを通して捧げられると、私たちは言いました。それらは、この世の諸々の畑から集められます。ところで、み使いたちの諸々の畑とは、私たちの諸々の心です。彼らの各々は、各自が耕す畑から神に初物を捧げます[1]。もしも私が、今日、何か偉大で、しかも至高の大祭司に相応しい理解を表明するに値するなら、たとえば、私たちが語り教えているすべての事柄の中に、至高の祭司を喜ばせるにちがいない何かしら秀でたものがあるなら、教会を監督するみ使いが私たちのすべての発言の中から何ごとかを集め、(それを)私の心という小さな畑からの初物として主に捧げることもおそらくあり得るでしょう。しかし私は、自分が(それに)相応しくないことをしっており、私の中にはそのような理解――つまり、私たちを耕すみ使いが、初物ないしは初子として主に捧げるに値すると判断する理解――は見出されるとは自覚しておりません。とにかく、私たちは語り教えていますが、私たちの諸々の言葉のゆえに私たちが断罪されるに値しませんように。私たちにはただその恵みだけで充分です。



[1] 同様の発言は、他の講話に見られる

 

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