34 これに(聖文書は)付け加えています:「主はアロンに語って言われた。『見よ。私はあなた方に諸々の初物を保存するために与えた』[1]」――ラテン語の幾つかの写本では、「守るために」と書かれているが、「保存するために」がいっそう真実である[2]――。しかし、諸々の初物は、律法によれば、どのように保存されるべきかが探求されねばなりません。なぜなら、祭司たちは保つために諸々の初物を受け取るのではなく、消費するために受け取るからです。どうして(聖文書は)「見よ。私はあなた方に諸々の初物を保存するために与えた」と言っているのでしょうか。それは、文字の律法にではなく、霊の律法に適応され得ることに由来します。実際、私たちに上で霊的に解説したあの諸々の初物が保存され得るます。しかし、もしもキリストが、使徒によると初物でもあるなら、真にその初物は、保存されるために私たちに与えられました。実際、キリストを受け入れた魂が常に彼を保存し、常にみずからの内に留まる彼を持つこと以上に幸いなことが何かあるでしょうか。真にそのような魂は、初物を保存するために受け取りました。実際、律法の中で捧げられた諸々の初物は、諸々の食物を通して消費されますが、福音が言うように、「腹に入り、片隅に散らされます[3]」。ところが、それらの初物を食べ、「天から降ってきたパン」を味わった人は死なず、永遠の命に留まります[4]。実に、そのパンは、常に食べられますが、常に存続し、いやそれどころか常に増大します。したがってそれは、使徒が言っているように、「霊的な食べ物[5]」です。それは、たくさん摂取されればされるほど増えていきます。実際あなたが、神の言葉をたくさん受け入れれば入れるほど、あなたがその食物をいっそう熱心に消費すればしるほど、それは、あなたの内に満ち溢れるでしょう。以上は、「諸々の初物を保存するために[6]」と書かれていることに関して述べてみました。



[1] Nb.18,8.

[2] この挿入句は、もちろん、ルフィヌスの加筆である。

[3] Cf.Mt.15,17.

[4] Cf.Jn.6,51.58.

[5] 1Co.10,3.

[6] Nb.18,8.

 

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