37 神的な諸文字を読み、文書の諸々の言葉を気の向くままに読み飛ばさず、一つひとつの言葉に注意する人は、どうして(主が)「彼らに息子たちや娘たちが生まれたなら」と言わずに、「彼らに息子たちが生まれたなら、彼らは三代目に主の教会に入るだろう[1]」といったのかいっそう注意深く見てみるべきです。そして、もしもあなたにできるなら、どうして娘たちではなく、息子たちだけが、父祖たちを「主の教会に入ら」せるのか、神秘的な意味に即して考察してください。少なくとも あなたは、神から格別の証しを与えられた聖なる人たちでさえ、娘たちを生むのは難しく、息子たちを生んだことを見出すでしょう。アブラハムは娘たちを生みませんでした。イサクにしても生みませんでした。ヤコブだけが一人の娘を生みましたが、彼女は兄弟たちと父祖たちの重荷でした。彼女は、「ハモルの息子シケム」によって汚されて[2](家族に)恥辱をもたらし、兄弟たちを復讐の念に駆り立てました。それに対し、「年に三度、すべての男子は、主の前に現れるように命じられています[3]」が、女性は主の前に現れるように招かれていません。したがって、もしも人がこのように神的な諸文書に注意深く当たるなら、その人は、それらの文書が或る箇所では息子たちと共に娘たちの名を挙げ、他の箇所では娘たちに言及しないのは無駄なことではなのに気づくでしょう。ですからここでも、イスラエルの聖化された息子たちによって捧げられる諸々の初物は、娘たちによっても捧げられるとは命じられていません。しかしそれらの事柄は、霊的な理解の次元では、性別にではなく、諸々の魂の違いに向けられるべきものです。



[1] Dt.23,8.

[2] Cf.Gn.34,13.

[3] Cf.Ex.23,17.

 

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