42 しかし、もしもあなたにできるなら、霊の他の諸々の実りについても同様の諸々の初物を見出すことができるとお考えください。「喜び」が、二番目に、「霊の実り」として書かれています[1]。ですからもしも私が、主において喜び、希望の内に喜ぶなら[2]、もしも私が主のみ名のために不正を受けて喜ぶなら[3]、あるいはそれらに類する他のすべての事柄において、私は真の大祭司を通して喜びの諸々の初物を神に捧げたことになるでしょう。さらに、私が「私の諸々の財産の略奪を喜んで受ける[4]」なら、また、諸々の艱難や貧困やあらゆる種類の侮辱を喜びつつ耐えるなら、あの霊の諸々の実りの中から第二に置かれた喜びの実りが私にあります。実に、もしも私が代の諸々の財貨や諸々の名誉、諸々の富について喜ぶなら、その喜びは偽りであり、「諸々の空の諸々の空[5]」に由来するものです。もしも私が諸々の害悪を喜び、他の人たちの諸々の災難について歓喜するなら、それは空しいだけではなく、悪魔的な喜びです、いや、喜びと名づけるべきものでもありません。なぜなら、「不敬虔な者たちに喜ぶことはあり得ない[6]」からです。私はさらに、喜びの他の実りを探してみたいです。いや、諸々の喜びの他の諸々の初物を探してみたいです。もしも私が、主の言葉において喜ぶなら、もしも私が神の諸々の神秘的な事柄の知識に関して喜ぶなら、もしも私が神の知恵の諸々の隠された秘密を認識するのに相応しい状態になったことを喜ぶなら、もしも私が、無益なものであれ有益なものであれ、無用なものであれ必要なものであれ、この世にあるすべての物を捨てて、ただ神のみ言葉と神の知恵に私を委ねるなら、私が思うに、それらすべての事柄だけで、私が受け取った喜びの諸々の初物は神に十分に捧げられるでしょう。霊の他の諸々の実りについては、各自が十分な時間を割いてください。なぜなら私たちは、講話をこれ以上長く引き伸ばすことができないからです。



[1] Cf.Ga.5,22.

[2] Cf.Rm.15,13.

[3] Cf.Mt.5,11.

[4] Cf.He.10,34.

[5] Qo.1,2.訳者朱門は愚直に訳している。

[6] Is.57,21.

 

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