45 実に今でも、私たちの心の耕作者であり農夫である神のみ使いたちは、(私たちの側に)来て、捜し求めています――私たちの誰かの内に、神の言葉を神的な種子としてまったく貪欲に受け入れたいと望むほど熱心でもどかしい思いをしている精神がありはしないか、私たちが祈りのために立ち上がるや否や、(その人が)実りを露わにしているかどうか、すなわち(その人が)諸々の感覚を集め自分自身に集中させて神に祈っているかどうか、祈りにおいて身体を曲げているときでも諸々の感覚によって様々な方向に駆け回るほど、(その人が)精神において放浪し、諸々の思いにおいて舞い上がっていないかどうかを。もしも人が――いいですか――自分の祈願が真剣で正しいものであることを自覚し、自分が神の諸々の眼差しと、あの言いようのない光の下に立っていることを理解したなら、またそのとき、外来のいかなる妄想に悩まされず、「諸々の祈りと諸々の祈願と諸々の要望と諸々の感謝[1]」を注ぎ出したなら、その人は、祭壇に居合わせるみ使いを通して、自分が捧げ物の初物を偉大で真の大祭司、私たちの主キリスト・イエスに捧げたことを知るでしょう。「彼に栄光が代々にありますように。アーメン[2]」。



[1] 1Tm.2,1.

[2] Cf.Ga.1,5. 本節は、オリゲネスの祈祷についての考えを簡潔に伝えている。このラテン語の本文は、当時の正統信仰に抵触する箇所を扱っているわけではないため、おそらくギリシア語原文にある程度忠実だろう。

 

始めに戻る