さて、私は、過越について書かれている箇所に至りましたので[1]、あの身体的な羊の内に将来の善いことの影が存在しており、それは「私たちの過越(の子羊)キリストが屠られた[2]」ことを意味していると理解せざるをえません。さらにあなたは、「諸々の無酵母パン[3]」についても、諸々の祭日の行事の数々についても、同じような仕方で書き記されているのを見出すでしょう。それらはすべて、律法の表題の下に、律法の内に書き記されており、律法は現在の影を通して将来の諸々の善い事柄を指し示していますから、必然的に、将来の諸々の善い事柄の無酵母パンとはどのようなものであるかを、私は探求しなければなりません。私は、使徒が次のように私に言うのを見出します:「私たちは祭日を祝いましょう。古い酵母の内にでもなく、悪意と邪悪の酵母の内にでもなく、誠実さと真理の諸々の無酵母パンの内に[4]」と。



[1] Cf.Ex.12,5. なお、「過越」(pascha)は、オリゲネスの思想を主導する隠れた主題の一つである。すでに『過越について』(拙訳)につけた序文(既刊)で、それに触れた(盗用厳禁)。それは、いずれ再論される

[2] 1Co.5,7.

[3] Cf.Ex.12,8.

[4] 1Co.5,8.

 

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