割礼についても、次のように書かれています:「これは、割礼の律法である[1]」と。割礼も律法の表題の下に考えられおり、律法は影ですから、律法の影は、将来の諸々の善き事柄として何を含んでいるかを、私は探求しましょう。それは、割礼の影の内に置かれた私に向かって、パウロが次のように言わないようにするためです。「もしもあなた方が割礼を受けるなら、キリストはあなた方には何の役にも立たないでしょう[2]」。「肉の内にある外見上の割礼が割礼ではありません。肉の内にある外見上のユダヤ人でなく、隠れたものの内にあるユダヤ人が(ユダヤ人です)。文字ではなく霊の内にある心の割礼が(割礼です)。その誉れは、人々によるのではなく、神に由来します[3]」と。したがって、文字に従って遵守されるべきではないと使徒が言うそれら一つひとつの事柄が、ほとんどすべて、律法の表題の下にモーセの許で表示されているのを、あなたは見出すでしょう。



[1] Cf.Gn.17,10.

[2] Ga.5,2.

[3] Rm.2,28-29.

 

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