11 では、どのようなことが、この井戸の傍らで歌われるのでしょうか。(聖文書は)言います:「あなた方は手始めとして、彼を井戸に手引きしなさい。司たちがそれを掘り、王たちが打ち固めた[1]」。司たちと王たちは同じ人たちであると考えることができます。しかし、もしも区別される必要があるならば、司たちは預言者たちであると、私たちは理解しましょう。実際、彼らは、キリストに関する思想と預言を文字の深みに埋めて、隠し置きました。そこで、彼らの一人が次のように言っていました:「もしもあなた方が隠れた仕方で聞かなければ、あなた方の魂は泣くだろう[2]」と。同じく、別の預言者は主に向かって言います:「主よ、あなたの甘美さは、何と多いことでしょう。あなたはそれを、あなたを畏れる人たちのために隠しました[3]」。ですから、彼らがこの井戸を「掘った司たち」です。他方、王たちは、それを「打ち固めた」人たちです。(聖文書は)「彼らが打ち固めた」と言っていることは、「切り出す」という語からでなく、「打ち固める」という語から言われています。実際、「打ち固められる」という語は、岩の中で砕かれたり形成されたりするものについて言われます。ですから「司たち」は、幾らか劣っている者たちとして、井戸を掘ると言われます。それはすなわち、彼らが、軟弱な大地の中で或る深さまで沈み込むようなものです。他方、(聖文書が)「王たち」と呼んでいる人たちは、いっそう強くいっそう秀でている者たちとして、大地の深みばかりでなく、岩の固さまで貫通して、より深い諸々の水に到達することができるようにします。そして、こう言うことができれば、そこで、深淵の諸々の水脈それ自体を探ろうとします。なぜなら彼らは、「神の諸々の裁きは、大いなる深淵である[4]」ことを知っているからです。



[1] Nb.21,17-18.

[2] Jr.13,17.

[3] Ps.30,20.

[4] Ps.30,20.

 

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