12 ですから、井戸のそれほどの諸々の深みとそれほどの諸々の隠された事柄を究めることのできる王たちを、私たちは正当に、使徒たちと言うことができるでしょう。彼らの内の或る人が次のように言っていました:「しかし、神は私たちに聖霊を通して啓示しました。実際、霊はすべての事柄を究め、神の諸々の深い事柄も究めます[1]」と。ですから、霊を通して彼らさえも、神の諸々の深い事柄を究め、井戸の深く深遠な諸神秘を貫くことができるわけですから、彼らは、岩の内にあるあの井戸を打ち固め、知識の固く難しい諸々の秘密を貫くことができた王たちであると言われます。使徒たちが王たちであると言われ得ることについては、信じるすべての人たちについて言われていることから容易に証明され得ると、私は思います:「しかし、あなた方は王の系統を引く民、偉大な祭司、聖なる国民です[2]」と。ですから、(使徒たちが)自分たちの言葉を通して信じた人たちを王たちであると言うなら、いわんや、王たちをつくる彼ら自身が王たちであると見なされるべきです。しかし、そのことから、次のことも容易に結論できます:すなわち、王たちが、統治することによって(王であると)言わるなら、神の諸教会を統治するすべての人たちも、正当に王たちと呼ばれます。さらにそれ以上に、諸教会を統治する彼ら自身をも、諸々の言葉と諸々の文書とによって統治する人々も、王たちと呼ばれます。それゆえ正当に、主は、「王たちの王[3]」と言われます。もしも彼らや、彼らに倣う人たちが王たちでなかったとすれば、主も、「王たちの王」とは考えられないでしょう。使徒パウロ自身も、コリントの人たちに(手紙を)書き、ある種の皮肉を込めて彼らを咎めならが次のように言っています:「あなた方は、私たちに抜きに、統治しています。しかし、私たちもあなた方と一緒に統治できるように、統治してくれたなら[4]」と。その言葉の中で(パウロは)、コリントの人々は王たちであるべきで、彼自身も彼らとともに統治したいと告げています。しかし彼は、栄誉の境地はまだ得られていないと非難します。



[1] 1Co.2,10.

[2] 1P.2,9.

[3] Ap.19,16.

[4] 1Co.4,8.

 

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