13 したがって、かれらのすべてが、すなわち「司たちがそれを掘り、諸国民の王たちが打ち固めます[1]」。実際、使徒たちは、すぐれて諸国民の王たちです。彼らは、諸国民を信仰の従順へと集め、キリストの覚知をすべての人に開きました。「その覚知の内に、神の知恵と知識の諸々の宝が隠されています」。彼らは、主の定めに従って全地を巡り、命令されたことを果たしました。その命令とは、彼らが「すべての諸国民に教え、父と子と聖霊の名において彼らに洗礼を施しなさい」という命令です[2]。そしてそれらのことによって、彼らは、「打ち固めました」。すなわち彼らは、井戸の覚知を開き、ありとあらゆる諸国民に知られるようにしました。

 しかし、いま私たちが手にしている文書、私たちのために朗読された文書も井戸であり、律法と諸々の預言の文書もみな同時に(一つの)井戸です。また、福音書も使徒の文書もみな同時に一つの井戸です。この井戸は、司たちと王たちが見出されなければ、掘ったり、打ち固めたりすることができません。実際、その井戸から土を取り除き、文字の表面を取り去って、「キリストがいる内部の岩[3]」から霊的な諸々の理解を生ける水のように提示できる人たちが、真に王たちであり、真に司たちであると見なされなければなりません。王たちや司たちである人たちだけがそれを行うべきです。彼らが王たちと言われるのは、自分の身体から罪の支配を駆逐し、正義の支配を自分の諸々の手足の内に備えたからです。実際、自分が教える事柄を先ず自分で行う人が他の人たちに教えるべきです。実際、「そのように行い、人々に教えた人は、諸々の天の国で偉大な人と呼ばれるだろう[4]」という言葉は、そのような意味で書かれています。国の中で偉大であることは、王であることです。

 「諸国民の王たちは、彼らに君臨している間、その王国の中でそれを打ち固めた[5]」と(聖文書は)言っています。実のところ、先ず夷狄の諸国民の支配を得なければ、彼らはその井戸を掘ることも、生ける水の諸々の隠れた水脈を開くこともできません。実際、彼らの内にある諸々の行いにおける野蛮な事柄や、夷狄の人たちの諸々の品行における野蛮な事柄をことごとく抑え、主導的能力の配下に置き、それらを支配することにより、以後、彼らが諸国民のようにではなく、法に従って振る舞うようにさせるなら、そのような人たちは真の意味で、井戸の諸々の深みを探り、神のみ言葉の諸々の隠された神秘を探求する王たちです。



[1] Cf.Nb.21,18.

[2] Mt.28,19-20.

[3] Cf.1Co.10,4.

[4] Mt.5,19.

[5] Cf.Nb.21,18.

 

次へ