15 しかし、あなたは、預言者がどのように言っていたかご注目ください:「イスラエルよ、今、あなたの神なる主があなたに求めているものは何か[1]」。それらの言葉によって、救われることが人間の意志の内にあるのを否定する人々は恥じ入るでしょう。いったい、どうして神は人間に求めるでしょうか――求める神に捧げられるべきものを、人間が自分の権能の内に持っていないとすれば。ですから神によって与えられる諸々のものと、人間によって供えられる諸々のものがあります。たとえば、「一ムナを十ムナにする」ことや「一ムナを五ムナにする」ことは人間の内にありました[2]。しかし、人間が十ムナを作ることのできた元手の一ムナを持つことは、神に由来しました。そして人間は、みずから十ムナを捧げたとき、彼は神から再び、もはや金銭ではなく、「十の町」を支配する権能と王権を受け取りました[3]。さらに、神はアブラハムに、彼の息子イサクを、「彼に示した山で」自分に捧げるように頼みました[4]。大胆不敵にも「アブラハムは、独り子を捧げ、祭壇の上に置き、小刀を抜き、喉をかき切ろうとしました。しかし突然、彼は妨げられ、雄羊が息子の代わりに生け贄として彼に与えられました。ですから、あなたはご覧ください――私たちが神に捧げるものは、私たちの許に留まります。しかし、そのためには、それらのことにおいて、神に対する私たちの愛と信仰が証明されることが切望されています。以上が、「イスラエルの子らは井戸から進み、マタナ[5]」――これは、彼らの諸々の捧げ物と解釈されます――「に来た」ということに関して、私たちが述べてみたものです。



[1] Dt.10,12.

[2] Cf.Lc.19,16-18.

[3] Cf.Lc.19,16-18.

[4] Cf.Gn.22,2.

[5] Cf.Nb.21,19.

 

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