16 さらに私たちは、「マタナからナハリエル[1]」に来ました。ナハリエルは、「神から」と解釈されます。「神から」とは何でしょうか。私たちは、私たちからの諸々のものを捧げた後、神からの諸々のものを頂くところまで来ました。実際、私たちは、私たちの信仰と愛情を神に捧げたとき、神ご自身も私たちに、聖霊のさまざまな賜物を私たちの惜しみなく与えてくださいます。それらの賜物について使徒は、「しかしそれらは皆、神からのもの[2]」だと言っています。

 私たちは、「ナハリエルからバモト[3]」に来ました。バモトは、「死の到来」と解釈されます。この到来はどのような死の到来だと私たちは理解すべきでしょうか――「私たちがキリストとともに死に、彼とともに生きる[4]」死でないとすれば;私たちが「地上にある私たちの肢体を殺す[5]」べき死でないとすれば;さらに、「私たちは洗礼を通して彼とともに死に葬らた[6]」という死でないとすれば。ですから、もしも人がこの救いの道の順路を守るなら、私たちが言及した個々の段階を通って旅を続け、多くの段階を経た後に、私たちが「死の到来」と意味すると述べた場所に到達すべきです。ところで、私たちが諸々の()文書から学ぶところによると、キリストに敵対する死と、彼に味方する死があります。キリストに敵対する死というのは、「最後の敵として死が滅ぼされます[7]」と言われている死で、それは悪魔です。むしろここで言われている死は、「私たちは、彼とともに生きるために、彼とともに死ぬ」という意味での死で、その死に即して神は、言っています:「私は殺し、生かす[8]」と。神は、私たちがキリストとともに死ぬために殺し、私たちがキリストともに生かされるに値するものとなるように活かします。



[1] Cf.Nb.21,19.

[2] Cf.1Co.8,6.

[3] Cf.Nb.21,19.

[4] Cf.2Tm.2,11.

[5] Col.3,5.

[6] Rm.6,4.

[7] 1Co.15,26.

[8] Dt.32,39.

 

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