19 物語は明瞭です。しかし私たちは、その諸々の内的な意味において何らかの相応しい事柄を看取することができるように主に祈り求めましょう。シホンは、「実りのない木」や「思い上がった」という二重の解釈を持っています。ですから「イスラエルは使者たちをシホンに遣わしました[1]」。彼は、実りのない木に遣わしました。思い上がりと高慢に遣わしました。ここで、シホンは、アモリ人たちの王で、彼らも「苦味に導く人たち」あるいは「語る人たち」と解釈されます。「モーセは、アモリ人たちの王に遣わして、平和の言葉で『私たちはあなたの地を過ぎ越すつもりです』と言った[2]」とります。もしも私たちが霊的な理解に即して、王シホンは悪魔の像を保持していると言っても――なぜなら悪魔も、高慢で思い上がっているからです――、私あ悪魔を王と言ったからとて、あなたは驚くべきでないと私は思います。なぜならあなたは、私たちの救い主なる主ご自身も、諸々の福音の中で彼について次のように言っているのを聞いているからです:「見よ。いま、この世の支配者が来た。彼は私の内に何も見出さないだろう[3]」。また、「見よ。いま、この世の支配者が外に遣わされる[4]」。ですから、もしも「世界全体の支配者」が存在すると諸々の福音の中で言われているなら、(悪魔が)アモリ人たちの王シホンや諸国民の他のどのような王にもなぞらえられても、馬鹿げていると考えらるべきではないでしょう。



[1] Nb21,21.

[2] Nb21,21-22.

[3] Jn.14,30.

[4] Jn.12,31.

 

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