こういうわけで、文字の貧しさは、霊的な理解の豊かさへと私たちを再び差し向けます。ですから、更に()文書の他の箇所からも、諸々の井戸の諸神秘を集めるのが適切であると私は思います――それは、多くのものの比較によって、目下の言葉が何か不明瞭な事柄を福音で居る場合、それが輝き出るためです。さて、神の霊はソロモンを通して『箴言』の中で言っています。「あなたは、あなたの諸々の器から、あなたの諸々の井戸の泉から諸々の水を飲みなさい。しかし、あなたの諸々の水を泉の外に溢れ出させてはならない」――ただし他の諸々の写本の中で私たちは次のように読んでいます:「あなたの水をあなたの泉の外に注ぎだしなさい」――「それらの水はあなただけのものである。他のものは誰も、その水に与れないようにせよ[1]」。ですから、それらの(言葉の)中で示されているように、私たちの一人ひとりは、各自の内に井戸を持っています[2]。いや、私たちは更に言いましょう。私たちの一人ひとりは、一つの井戸を持っているのではありません。多くの井戸を持っています。一つの水の器を持っているのでありません。多くの器を持っています。実際、(聖文書は)「あなたは、あなたの器から諸々の水を飲みなさい」ではなく、「多くの器から」と言っています。「あなたの井戸の泉水から」ではなく、「あなたの諸々の井戸の泉から」と言っています。私たちは、太祖たちも諸々の井戸を持っていたことを読みます。アブラハムも持っていました。イサクも持っていました。更にヤコブも持っていたと私は思います[3]。それらの井戸から始めたら、あなたは()文書全体に目を通して[4]、諸々の井戸を探り、諸々の福音にまで到達してください。あなたはそこに、あの井戸を見出すでしょう。私たちの救い主が旅の疲れの後で傍らに座って休まれた井戸です[5]。そのとき「井戸から諸々の水を汲もうと、サマリアの婦人がやってきた[6]」とあります。それゆえ、諸々の()文書の中で、井戸あるいは諸々の井戸の特質はなんであるか説明され、諸々の水の比較がなされなければなりません。それによってまさに、神的な神秘の数々の隠された事柄が明らかになるでしょう。



[1] Pr.5,15-17.

[2] Cf.Hom.Gn.XII,5:「私の話を聞いているあなたは、あなた自身の内に井戸を持つように努めてください。あなた自身の内に泉を持つように努めてください。・・・あなた自身の内に、生ける水の源があります」。

[3] Cf.Jn.4,6.

[4] ギリシア語原文もこのような表現であったかどうか定かではないが、この表現による限り、聴衆は限られているようにも思われる。あるいは、この表現は、オリゲネスの目の前にいる特定の人に向けられたものか。もちろん後者である。

[5] Cf.Jn.4,6.

[6] Jn.4,7.

 

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