21 ですから「イスラエルは、使者たちをアモリ人たちの王[1]」、苦味に駆り立てる人たちの王、実りのない人たちの王、高慢な王の許に遣わしました。どのような意味で悪魔は高慢であり、どのような意味で思い上がっていると教えられるでしょうか。実に、彼みずから次のように言っています:「私は、私の力によって行おう。私の知性の知恵によって諸国民の国境を取り除こう。私は彼らの力を奪おう。人の住んでいる町々をかき乱そう。全世界を鳥の巣のように私の手でつかもう」。さらに、この高慢で思い上がった人物は、次のように言っています:「私は、天に昇ろう。私は、天の諸々の星を超えて私の玉座を置こう。私は、北にある他の諸々の山々を超えて高くそびえる山に座ろう。私は諸々の雲を超えて昇ろう。そして私は、いと高き者に似た者になろう[2]」と。あなたはまだ、彼が高慢で思い上がった者なのかどうか疑問に思うのですか。そうです、彼こそ高慢な者であり、思い上がる者です――実に、その独り子のように。その独り子についてこう書かれています:「彼は、神であると言われるものや崇拝されるものの一切を超えて高ぶり、神の神殿の中に座るに至り、自分を神であるかのように示している[3]」。ですから、高慢で思い上がったすべての人は、あの高慢な者の息子であり、弟子であり、模倣者です。それゆえ使徒は、或る人について次のように言っています:「それは、彼が思い上がって、悪魔の裁きに陥らないようにするためです[4]」と。使徒は、このことによって、思い上がった人は皆、悪魔と同じように、同様の裁きによって断罪されるだろうということを明示しています。



[1] Nb21,21.

[2] Is.14,13-14.

[3] 2Th.2,4.

[4] 1Tm.3,6.

 

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