22 ですから私たちは、この世を過ぎ越して、聖なる人たちに約束された聖地に至ることができるように望んでいます。そして私たちは、平和の言葉において(使者たちを)シホンに遣わし、私たちは彼の地に住むつもりはなく、彼とともに暇取るつもりもなく、ただ過ぎ越すつもりであり、王の道を進むだけであり、私たちは道を逸れて畑やぶどう畑に入るつもりはなく、彼の貯水池から水を飲むつもりはないと約束します[1]。では、私たちはいつそのように約束したのか、いつそれらの言葉で悪魔に通告したのか見てみましょう。信者の一人ひとりは、初めて洗礼の諸々の水に至ったときのことを思い起こすべきです:そのとき、信仰の最初の諸々のしるしを受け取り、救いをもたらす泉に近づきました。そのときどのような諸々の言葉を使い、何を悪魔に通告したでしょうか。彼の諸々の虚栄や彼の諸々の業を使わないこと、いかなる仕方によっても彼に隷属したり、彼の諸々の悦楽に従わないと。このことが、「イスラエルは道を逸れて畑やぶどう畑に入らず、彼の貯水池から水を飲むつもりもない[2]」と約束したという言葉の内に素描されています。実際、信者は、悪魔的な学科、占星術も魔術も、そもそも、神の信心に反する何らかの事柄を教えるあらゆる学説も、もはやそのひと滴も飲むべきではありません。なぜなら信者は、自分の諸々の泉を持っており、イスラエルの諸々の泉から飲み、救いをもたらす諸々の泉から飲むからです。彼は、シホンの貯水池から水を飲みませんし、「生ける水の泉を捨てて[3]」壊れた諸々の貯水池を集めることはしません。むしろ彼は、「王の道を進む[4]」と約束します。王の道とは何でしょうか。それは、疑いもなく、「私は道と真理と命である[5]」と言っている道です。それは、王の道でしかるべきです。なぜなら預言者がまさに彼について、「神よ、あなたの裁きを王に与えてください[6]」と言っているからです。ですから王の道を進むべきであり、(その道を)それて彼の畑や彼のぶどう畑に入るべきではありません。すなわち信者たちの諸々の精神は、もはや、悪魔的な諸々の業や諸々の考えに傾くべきではありません。



[1] Nb.21,22.

[2] Nb.21,22.

[3] Jr.2,13.

[4] Nb.21,22.

[5] Jn.14,6.

[6] Ps.71,1.

 

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