しかし、私たちはどのようにすれば、井戸に関する複数と、泉に関する単数を説明できるか探求するのは、無駄ではありません[1]。なぜなら、『箴言』の中で知恵は、次のように言っているからです:「あなたは、あなたの諸々の井戸の(一つの)泉から、諸々の水を飲みなさい[2]」と。ですから私たちは、(知恵が)どのような諸々の井戸の一つの泉のことを言ったのか考えてみましょう。私は次のように思っています:生まれざる御父の知識は一つの井戸であると理解することができるとともに、その方の生まれざる御子の認識も、また別の(一つの)井戸であると理解すべきです。実際、御子は御父とは別であり、同じ御子が御父でもあるわけがありません。それは、御子自身が諸々の福音の中で言っているとおりです:「私について証しを述べる方は別におり、それは父である[3]」と。さらに私は、聖霊の認識が大さんの井戸であると考えることができると思っています。なぜなら聖霊自身も、御父や御子とは別だからです。それはやはり、聖霊について、諸々の福音の中で言われているとおりです:「父は、あなた方の許に、別の弁護者、真理の霊を遣わすだろう[4]」と。ですから、複数の井戸の数に当てはまるのは、父と子と聖霊における三つのペルソナのそのような区別です。しかし、これらの諸々の井戸には一つの泉が属します。なぜなら三位の実体と本性は唯一だからです[5]。かくして、「あなたの諸々の井戸の(一つの)井戸から[6]」と言っている聖文書の区別は無駄ではないことが判明するでしょう。それにしても、神秘的な諸々の発言は、複数形で言われていることは(三つの)諸々のペルソナに適合し、単数形で言われていることは実態に適合することを注意深く示しています。



[1] だから私(朱門)は、これまで、「諸々の」、「数々の」、「〜の数々」、「諸〜」などの語句をいちいち付けて、原文の数を無理に日本語に反映させてきたのである。

[2] Pr.5,15.

[3] Cf.Jn.8,18.

[4] Cf.Jn.14,16-17.

[5] una enim substantia est et natura Trinitatisこのラテン語訳文は、ルフィヌスによる加筆の可能性が大である。

[6] Pr.5,15.

 

次へ