さらに――神の知恵に満たされた方が、それらに関する知恵について語っているところの――諸々の事柄も井戸であると考えられます。彼はこう言っています:「実にその方は、存在する諸々の事柄の真の知識を私にくださった。その結果、世界の実体、諸元素の力、諸々の時間の始めと終わりと中間、変転する諸々の諸々の変容、諸々の時間の数々の遷り変わり、一年の数々の周期、諸々の天体の数々の位置、生き物たちの数々の本性、毛物たちの数々の気質、諸々の霊の数々の衝動、人間たちの数々の考え、諸々の潅木の数々の違い、諸々の根の数々の力を、私は知るようになった[1]」。あなたは、諸事物の知識の内に井戸がどれだけあるかお考えください。たとえば、諸々の潅木の知識が井戸です。おそらく、一つひとつの潅木の本性も、固有の井戸を持っているでしょう。同じく、生き物たちに関する知識も井戸です。おそらく生き物たちの一つひとつの種も固有の井戸を持っているでしょう。また、諸々の時間の秩序や変遷や変化に関する井戸もあります。そして、それら一つひとつの事柄は、深く深遠な知識を持っており、当然、比ゆ的に諸々の井戸と呼ばれます。また、「キリストの神秘が代々に、諸々の世代から隠されている[2]」限り、それらに関する知識も、当然、諸々の井戸と呼ばれます。しかし、パウロが言っているように、信じる人たちに、「神がご自分の霊を通して明らかに示すとき[3]」、それらすべての事柄は、諸々の泉と諸々の流れになります。こうして、それらに関する知識は、もはや隠されたところにはあらず、多くの人たちの許にもたらされ、信じる人たちを潤し、飽かすことでしょう。

 そのようなわけで、救い主はご自分の弟子たちに、次のように言ったのだと私は思います。すなわち、彼を信じ、彼の教えの水を飲む人はもはや井戸でも泉でもない。その人の内に生ける水の諸々の流れが生じると[4]。実際、神のみ言葉である唯一の井戸が諸々の井戸や泉、無数の流れになるのと同じように、神の像に即している人間の魂も[5]、それ自身の内に諸々の井戸と諸々の泉と諸々の流れを持ち、それ自身の内からそれら(の井戸と泉と流れ)をもたらすでしょう。



[1] Sg.7,17-20.

[2] Cf.Col.1,26.

[3] 1Co.2,10.

[4] Cf.Jn.7,38.

[5] Cf.Gn.26,15.

 

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