さらに、アブラハムの僕が、イサクに嫁がせるため、あるいは、会わせるために、妻を捜しに来たとき、「井戸の傍で」リベカ――彼女は忍耐と解釈されます[1]――を見つけました[2]。彼女は、他ならぬ「井戸の傍らで」イサクの妻になりました。同様にヤコブも、他の部族や異なる血から配偶者を取ってはならないという父の命令を守りつつ、メソポタミアに来たとき、「諸々の井戸の傍らで」ラケルを見つけました[3]。モーセも、「諸々の井戸の傍らで」ツィポラを見出しました[4]。ですから、もしもあなたが、聖なる人たちの妻たちが何者でああり、どのような者であるかを理解したなら、さらにもしもあなたが忍耐を、あなたの配偶者としてあなたに付き添わせたいなら、もしもあなたが知恵やその他の魂に属する諸々の徳を付き添わせ、知恵について「私は、私の妻として迎えるためにこれを探した[5]」と言われていることを言いたいと望むなら、あなたはしばしば井戸の傍らに行き、粘り強くたたずんでください。そうすればあなたは、そこで、そのような配偶者を見出すでしょう。実に、諸々の生ける水の傍らで、すなわち、生きているみ言葉の数々の流れの傍らで、魂のすべての諸徳が住んでいるのは確実です。



[1] Cf.Philon, Congr.37.

[2] Cf.Gn.24,1s.

[3] Cf.Gn.29,1s.

[4] Cf.Ex.2,15-21.

[5] Sg.7,10.

 

次へ